第80話 最後の郵便
峠の上の空が、朝から鉛の色をしていた。
雪の雲だった。雷の雲より低く、平たく、音を立てずに尾根の上を覆っていく。番小屋の脇の柱の冠が、曇った光の中で鈍く光っていた。三方へ延びる線のうち、ハルデンへの一本が、今日は尾根の向こうまで途切れずに続いている。
「最後の一本です」
尾根の上から、ヤネクの声が下りてきた。北西の稜線の、いちばん高い柱のてっぺんに、ヤネクがしがみついている。銅線を碍子に巻き、撚り、端を留める。鉄に触ると震える手が、銅の上では最後まで静かだった。
柱の向こうから、同じ線が下りてきていた。ハルデン側の区間は、オスヴィンが坑夫たちに張らせたものだ。二つの線の端を、ヤネクが一つに撚り合わせた。
「つながりました!」
アルノが叫ぶと、番小屋の戸口でボルクが空を見上げた。
「雪は、夜だ」
「夜ですか!」
「喜ぶな。夜に降ったら、朝には峠が閉じる」
番小屋の中では、ハンネがハルデンの線の針の前に座っていた。隣に、見慣れない娘が一人、膝を抱えて座っている。十三か十四の、頬に黒い粉の残った娘だった。線を張る坑夫たちと一緒に古道を越えて来て、それからずっとハンネの隣で拍を習っていた。ハルデンの側で、オスヴィンの信手になるのだという。
「行の拍。間。段の拍」ハンネが指で卓を叩いた。「もう一回」
娘が卓を叩いた。ハンネは首を振った。
「遅い。雪が降る前に、帰れない」
「帰れます」娘はハンネを睨んだ。「今日の昼、北の道の最後の荷で帰る」
「なら、帰るまでに、あと十回」
アルノは戸口から二人を見ていた。十一の子が、年上の子に拍の数え方を教えている。去年の今ごろ、ハンネは小石を壺に落として雷を数えていた。
* * *
昼過ぎ、峠の西の坂を、郵便の騾馬が上がってきた。
ミルデから峠を越えて谷へ下りる、今年最後の便だった。背の袋は薄い。ボルクが受け取り、一通ずつ宛名を見て、最後の一通をアルノに渡した。
封蝋は、麦の穂の上に雨粒が三つ。
アルノは戸口の脇に立ったまま、封を切った。手紙は短かった。整った字で、手帳を読み上げる時と同じ調子の文が並んでいた。
麦の値を戻してからの谷の口の数を、峠の商人たちから聞いています。減りませんでした。記録に加えます。ハルデンの坑道に谷の灯りが入ったことも、聞きました。一月で一割。お見事です。評議会は、春に峠の件を審議します。私は、もう一度申し上げるつもりです。
それから、最後の一行。
「記録によれば、冬の谷は雷が少ない」アルノは声に出して読んでいた。「あなたは、呼びすぎるでしょう」
番小屋の前が静かになった。風が一度、尾根から下りてきて、柱の冠を鳴らした。
「……呼びすぎる」アルノは手紙を見たまま言った。「伯爵さん、どうして」
「あんたの体まで帳面につけるって、夏に言ってたろ」
イルゼが戸口の柱に寄りかかっていた。谷の冬の勘定を持って、朝から峠に上がってきていたのだった。帳簿を胸に抱え、手紙を顎で指した。
「冬は雷が少ねえ。ハルデンの灯りは、春の雪解けに渡す分まで冬のうちに満たしとく約束だ。杭に落ちるのを待ってたら半分も満たねえ。あとは、あんたが呼ぶしかねえ。あの伯爵、谷の冬の帳簿まで先につけてやがる」
アルノは手紙を畳んだ。ベアタの帳面の、二つの数字が頭に浮かんだ。十本まで。十五で止まる。喜ぶんじゃないよ。
「呼びすぎません」アルノは言った。「十本までです。ベアタさんと約束しました」
「約束ってのは、守る奴が言うから値がつくんだよ」イルゼは帳簿を開いた。「春まで、あたしが毎日数えてやる」
「毎日ですか!?」
「毎日だよ。財務官は、領主の本数も数える。おいおい、嬉しそうな顔すんな。取り立てるほうの数え方だぞ」
坑夫の娘が、昼の最後の荷と一緒に北の道を下りていった。振り返って、ハンネに手を振った。ハンネは手を振り返さず、卓を指で叩く真似をしてみせた。行の拍。間。段の拍。娘が、同じ拍を宙で叩き返した。
* * *
雪は、日が暮れてから降り出した。
最初は細かく、それから大きく、音もなく峠を埋めていった。番小屋の窓から見る坂は、半刻で白くなり、一刻で道の形が消えた。西の坂も、北の道も、谷へ下りる三度折れる坂も、全部同じ白の下になった。
「閉じた」
ボルクが窓から離れて言った。炉の火に手をかざし、壁の名前の前を通って、奥の寝床へ行った。ミロシュが受け手の卓の前に座り直した。今夜が、塔守の最初の夜番だった。
イルゼは雪の前に谷の受け小屋へ下りていった。アルノは帰らなかった。番小屋の卓の前で、ハンネとミロシュの間に座って、三本の硝子の針を見ていた。谷への針。ミルデへの針。ハルデンへの針。
峠が閉じたら、春まで谷は外と切れる。去年の冬、谷は雪の下で、外の誰の声も聞かずに冬を越した。
ハンネが、うとうとし始めた。ミロシュが膝の毛布を、ハンネの肩へ掛け直した。炉の火が小さくなった。外で雪が屋根を叩く音も、いつの間にかしなくなっていた。
その時、硝子の針が鳴った。
ぴっ、と。ハルデンへの針の先に、青い火花が一つ、跳んだ。
アルノは息を止めた。ハンネが目を開けた。ミロシュが卓の上に身を乗り出した。閉じた峠の向こう、雪の尾根を越えて、線の上を何かが来ていた。
もう一つ、跳んだ。
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【第8章「銅の道」のあらすじと登場人物】(第71〜80話)
■あらすじ
壺の灯りと取り替えたハルデンの銅を、組合は子爵の借財を握って押さえにかかる。アルノは坑道でガスパルの隊を退けたが、子爵は組合を選んだ。古道を越えて届いた銅を一本の雷を三十に分けて守り、ミルデでは一月で一割しか減らない二型壺を完成させる。峠が雪で閉じた夜、つながったばかりのハルデンの線に拍が跳ぶ。
■登場人物
◆アルノ・ブラウエン
一本の雷を三十の筋に分けて落とす力を、雪の尾根で初めて見せた保持者。坑道では壺の雷を細く流して誰も殺さずに銅を守ったが、子爵の「選べない」に返す言葉を失った。ミルデではエーミルと言い合いながら壺の口の音に気づき、一月もつ壺へたどり着く。
◆イルゼ
ザーラ谷の財務官。取立屋だった頃の勘で見張りのいる工房の裏口へ回り、二型壺を一つ金貨三枚で売り切った。組合に売り方を任せろというアンゼルムの申し出は即座に断る。伯の手紙を受けて、冬のあいだアルノが呼ぶ本数を毎日数えると宣言した。
◆ボルク
峠の守りの長。ハルデンへの道を先導し、坑道では「数えるのは、終わってからだ」とアルノを支えた。戦には勝ち、銅は別の場所で負けたと見極める。番小屋の脇の柱は気に入らないまま、塔守を志願した若者ミロシュに、まず退き口から教え始めた。
◆ハンネ
線の拍を読む谷の子。峠の分かれの柱で三方に割れ、弱くなった拍を見極めて、昼でも全部数えられるほうに賭けようとした。ハルデンから来た年上の娘に符号を叩き込み、峠が閉じた雪の夜、ハルデンの線の針に跳んだ火花に目を開けた。
◆ズデンカ
黒羽団の頭。口数の少ない手下五騎をハルデン行きに付け、坑道に煙を流そうとする敵を林から蹴散らさせた。尾根の肩に坑夫の列と雷雲を見つけて知らせ、飛び出すアルノに、分かっていて行ったことを「覚えておく」と告げた。
◆ベアタ
谷の医師。三十に分けた雷のあとを診て、空から来たのも体を抜けたのも一本だと言い切った。上限を「十本まで、十五で止まる」と改めつつ、数を増やして一日で止まった者を二人知っていると明かし、「喜ぶんじゃないよ」と釘を刺す。
◆オスヴィン
ハルデン鉱山の代理人。子爵が組合を選んだ後も、組合の日付より前に払い済みだった銅を坑夫四十人に担がせ、古道を越えて谷へ届けた。ミルデで一月灯り続けた壺を見ると、坑夫の命を記した二行を子爵へ送り、預かっていた年契約の証文を差し出した。
◆ラデク
継ぎの当たった上着を着たハルデン子爵。組合に借財を握られ、千を超える口の麦のために「選べない」と谷の銅を手放した。それでもオスヴィンの銅運びを見ないふりで通し、灯りが一月もてば渡せと、自ら署名した年契約の証文を託していた。
◆ガスパル
前の冬に谷を攻めた傭兵隊長。組合の鉱石商の護衛として百五十を率い、晴れが続く四日目の坑道へ攻め込んだ。暗闇の水の上で手下を次々に痺れさせられ、日没で契約を終えると「穴の中は、谷の外に入らねえらしい」と言い残して去った。
◆エーミル
組合を抜けて十年になるミルデの細工師。組合の見張りが立つなか工房の裏口を開け、手間賃は昔イルゼに返済を待ってもらった借りの利息だと受け取らなかった。硝子の糸を芯に二重に巻き、雷木の栓をねじ込んで、二型壺をアルノと作り上げた。




