第78話 二重の芯
工房の奥の物置は、窓を板で塞いであった。
板の継ぎ目には布を詰め、戸の下の隙間にも古い前掛けを押しこんである。戸を閉めると、鼻をつままれても分からない暗さになった。その暗さの真ん中に、青い光が一つ、ぽつんと灯っていた。
壺の肌に、紐で札が結んである。札には、エーミルの細い字で日付が書いてあった。一月前の日付だった。
「……点いてる」
アルノは戸口で立ち尽くしていた。一月ぶりの細工通りだった。
あの晩、音の消えた壺を三つ作って物置に置き、谷へ戻った。壺置き場の杭と天気帳の間を行き来しているあいだも、ずっとこの物置の暗さのことを考えていた。峠に雪が来る前にもう一度だけ来られる日を、イルゼと二人で帳簿の上から削り出し、四日の道を来た。
「測ってみろ」エーミルが後ろから言った。「一月、誰もこの戸を開けてない。開けたのは、今が最初だ」
アルノは膝をつき、雷木の栓をねじって外した。硝子の枝を差し、床に突き立てた短刀の刃へ近づける。枝の先から青い糸が伸びて、刃の先に触れた。
「いち、に、さん、し……」
暗い物置の中で、数える声だけがした。青い糸は細くなりながら、なかなか消えなかった。
「……じゅう、じゅういち」
糸が消えた。十二まで、あと一つ足りなかった。一つしか、足りなかった。
アルノは顔を上げた。暗がりの中で、エーミルの顔もイルゼの顔も見えなかった。
「十一です。満たした日が、十二でした」
「一月で、一つ」イルゼの声がした。「一割だ」
「一割です! 三日で半分だったのが、一月で一割です!」アルノは立ち上がって、天井の梁に頭をぶつけた。「いたっ……一割です! エーミルさん、一割ですよ!?」
「聞こえてる」エーミルの声が、暗がりの中で笑っていた。「角の男にも聞こえてる」
* * *
その日の夕方、裏口の塀を越えて、坑夫の頭巾をかぶった男が入ってきた。
頭巾を取ると、白い顔が現れた。オスヴィンだった。晩秋の終わりに、ズデンカの斥候が古道を越えて届けた手紙を、懐から出して見せた。アルノが書いた手紙で、一行だけだった。一月たったら、ミルデで見てください。
「北の道は、組合が見張っています」オスヴィンは手紙を畳んだ。「だから、坑夫のふりをして、鉱石の荷に紛れて来ました」
「見てください!」
アルノはオスヴィンの袖を引いて、物置へ連れていった。戸を閉め、暗さの中で、あの壺の青い光が灯っているのを見せた。
オスヴィンは壺の前にしゃがみ、札の日付を光に寄せて読み、それから懐の帳面を開いた。坑道の図の頁だった。青い光の中で、細い線がはっきり読めた。
オスヴィンは長いあいだ、その頁を見ていた。
「組合の灯りで、去年、三人死にました」
「……はい。坑道の、いちばん奥で」
「この灯りでは、一月、誰も死なない」
オスヴィンは帳面の余白に、その二行を書いた。書き終えると頁を破り、畳んで、エーミルに差し出した。
「封をする蝋を、貸してもらえますか。子爵様への手紙です」
エーミルが蝋を炙り、オスヴィンがそれを紙に垂らした。蝋が固まるのを待ってから、オスヴィンは懐からもう一通、別の紙を出した。封はしていない。折り目が、何度も開いては畳まれて、白く擦り切れていた。
「子爵様から、預かってきた物です」オスヴィンは紙を作業台に広げた。「灯りが一月もっていたら、谷に渡せ。もっていなかったら、燃やせ、と」
年契約の証文だった。
ハルデン子爵領の坑道の数だけ、谷の新しい壺を灯りとして借りる。一年の代は金貨五百。前金として、百を先に払う。末尾に、太い字の署名があった。指の節の太い、あの手で書いた字だった。
「組合は……」イルゼが証文を覗き込んだ。「子爵は組合に首根っこ掴まれてんだろ。灯りまで組合の秤を通せって、言ってこねえのかよ」
「言ってくるでしょう」オスヴィンは平らな声で言った。「組合の秤が決めるのは、ハルデンから出る銅の値です。坑道の中で何を灯すかは、子爵様が決める。子爵様はそう書いた返事を、もう組合へ出しておられます」
「……銅より、坑夫を取ったってことか」
「子爵様は、自分が坑夫だった頃の話をなさらない」オスヴィンは証文をイルゼのほうへ押しやった。「でも、あの手を見れば、分かるでしょう」
アルノは証文の署名を見ていた。ハルデンの館の卓で、組合を選んだ手。選べない、と言った手。同じ手が、同じ太い字で、今度は谷の名前の横に署名していた。
「オスヴィンさん」アルノは顔を上げた。「子爵さんに、ありがとうございますって、伝えてください。それから……あの時、選べって言いそうになって、ごめんなさいって」
「伝えます」オスヴィンは頷いた。「子爵様は、たぶん何も言わずに、帳面を閉じます」
イルゼが前金の額を帳簿に書きつけていた。ペン先が、いつもより丁寧に紙の上を動いていた。書き終えると帳簿を閉じて、オスヴィンを見た。
「坑道は、いくつある。数えとかねえと、前金の割り振りができねえ」
オスヴィンは、口の端をわずかに緩めた。夏の谷で、何でも数えると聞きました、と言った時と同じ顔だった。
「坑道の数だけ。……来年は、もっと掘る」
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