第76話 十本と十五本
診察の指は冷たかった。施療部屋の窓は半分だけ板を外してあって、晩秋の弱い光が寝台の上に斜めに落ちていた。アルノは上着を脱いで腰かけ、左腕を差し出していた。
ベアタは肘から肩へ、肩から鎖骨の手前へ、雷紋の枝を指の腹でたどっていく。去年の夏から見慣れた赤黒い枝の先に、昨日まではなかった細い一筋が伸びていた。鎖骨の上を、首のほうへ。
「ここだね」老いた指が、その一筋の上で止まった。
「昨日の、三十本の分ですか!」
「一本の分だよ」ベアタは顔も上げなかった。「あんたが何に分けようと、空から来たのは一本。あんたの体を抜けたのも一本。枝の数は、あんたが数えただけだ」
「でも、焼けてません! 腕も、ほら、ぜんぜん震えてなくて」
アルノは左手を握ったり開いたりしてみせた。薬指と小指は、握っても開いても何も感じない。それでも、指は言うとおりに動いた。ベアタはその手首を取って、黙って脈を数えた。
窓の外で、遠い雷が一つ鳴った。アルノの口が勝手に動いた。いち、に——
「数えるんじゃないよ。今、あたしが数えてる」
「……はい。数えません」
ベアタは手首を離し、帳面に何か書いた。去年の秋から、アルノの体のことだけを書いてきた帳面だった。冬の頁に書いてあるのは、湿地の夜の前に告げられた数。夏の終わりの頁には、岩の上で止まった拍の数。どの頁も、アルノが自分の天気帳に書き写した数と同じだった。
「さて」ベアタは新しい頁を開いた。「昨日のあんたは、あれを細かく分けて、あちこちにばらまいた。体の中で、熱を腕に集めずに散らしたんだ。だから焼けが軽い」
「分けると、軽いんですね!」
「一本ずつはね」ベアタはペン先で頁を叩いた。「前は、腕だけで受けてた。だから腕が先に焼けて、心臓がその後を追った。今度は、散らせる。散らせる分だけ、数が増える」
アルノは身を乗り出した。寝台がきしんだ。「何本ですか!?」
「十本まで」
「じゅっ……!」
「十五で、止まる」
ベアタはそれだけ言って、帳面に数字を二つ書いた。書き終えるとペンを置いて、アルノの顔を正面から見た。
アルノの目がきらきらしていた。三が十に、五が十五に。去年の冬、湿地で選んだ夜は、あれで全部だった。今度は、あの夜が三回できる。昨日の肩の上の筋の輪が、一日に十回。頭の中で数が勝手に増えていって、口元が緩むのを止められなかった。
「十あったら、冬の壺置き場で——」
「分けても、通るのはあんたの体だよ」声は平らなままだった。「全部分けたら、三百の枝になるだろうさ。三百の枝が抜ける道は、一つだけ。あんたの肩と、胸と、ここ」ベアタは指で、アルノの胸の真ん中を突いた。夏の終わりに、この人が拳を振り下ろした場所だった。「それを忘れて数を増やした奴を、あたしは二人知ってる。どっちも、一日で止まった」
アルノの口元が、元に戻った。「……二人、ですか」
「昔の話だよ。雷の谷には、雷に好かれた者がたまに来る」ベアタは帳面を閉じた。「それから、もう一つ。あんたは前に一度、止まってる。十二拍。あの時は戻った。次に止まったら、戻るかは分からない」
窓の外で、また雷が鳴った。さっきより近い。アルノは膝の上で両手を握った。感覚のない二本の指が、拳の中にあるのかどうかも分からなかった。
「……分かりました」
「分かってない顔だね。目が、まだ数えてる」
「分かりました! 十までです! 十五は、数えません」
戸口で、帳簿が柱に当たる音がした。イルゼが寄りかかっていた。いつからいたのか、腕を組んで、半分呆れた顔でこちらを見ている。
「で、いくらになった。婆さん」
「十。十五で止まる」
「三が十か。借金の利息より増え方が速えな」イルゼは帳簿を開き、ペンを舐めた。「坊ちゃん、今の顔、帳簿につけとくぞ。十って聞いた時の顔」
「どんな顔ですか! 見せてください!」
「銅貨を拾ったガキの顔だよ。道の真ん中で、落とし主が見てる前でな」
イルゼは帳簿に何か書きつけた。アルノが首を伸ばすと、頁の端を手で隠した。それから顔を上げて、ベアタを見た。
「ついでに訊くけどよ。昨日の坑夫どもの晩飯と、今朝の粥と、帰りの弁当。谷の勘定でいいのか」
「あたしに訊くんじゃないよ。医者は、腹の中までは数えない」
「冷てえな。……いいよ、谷で持つ。あいつら、雪の中を銅を担いできたんだ」
イルゼが出ていくと、アルノは寝台の脇の天気帳を引き寄せた。右手でペンを取り、感覚のない指で頁を押さえて、一行を書いた。一本は、分けられる。その下に、しばらく考えてから、もう一行。分けても、通るのは私の体。
老医者は横からそれを覗き込み、鼻を鳴らした。
「二行目を先に書きな」
「どうしてですか? 両方、大事です」
「あんたは、一行目しか読み返さないからだよ」
道具箱の蓋が閉まった。窓の外では、雲がまた光っていた。アルノは上着に袖を通しながら、窓を見上げた。口がまた勝手に動いた。いち、に、さん。
ベアタは戸口で足を止め、振り返らずに言った。
「十本まで。十五で、止まる。……喜ぶんじゃないよ」
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