第73話 子爵の借金
早馬は、夜明けと一緒に着いた。
アルノは坑道の口の脇の小屋で、空の壺を抱えたまま眠っていた。ボルクに肩を揺すられて目を開けると、窓の外で馬が白い息を吐いていた。鞍の布に、秤と麦束の紋。昨日の鉱石商の馬よりずっと痩せていて、ずっと速そうな馬だった。
「子爵が呼んでる」ボルクが言った。「オスヴィンもだ」
館は町のいちばん上にあった。石の壁にまで黒い粉が染みている。広間の卓に、子爵ラデクが座っていた。昨日と同じ継ぎの当たった上着で、目の下が黒い。一晩眠っていない顔だった。
卓の上に、証文が一枚置いてあった。封蝋は秤と麦束。
「座ってくれ」子爵は証文をアルノのほうへ押し出した。「読めば分かる」
アルノは読んだ。二度読んだ。ハルデン子爵が王都の両替商と、ミルデのいくつかの商会に負っていた借財を、商人組合がすべて買い取った。以後、子爵の債権者は組合ただ一つ。子爵領の銅は、一本残らず組合の秤を通して売ること。秤を通さない取り引きは、借財の期限を早める理由とする。
日付は、三日前だった。
「三日前……」アルノは顔を上げた。「昨日の鉱石商さんが、日没まで、って言ってた時には、もう」
「決まっていた」子爵は言った。「昨日の紙は、急ぎの手だ。日没までに銅を押さえられれば、それでよし。押さえられなければ、この紙が来る。組合は、両方用意していた」
アルノは証文を卓に置いた。指先が冷たくなっていた。昨日、坑道の暗がりで倒した人たち。空になった壺。ぎりぎりで勝ったと、ボルクと二人で言い合ったのは、ほんの半日前だった。
「坑道の口の銅は、どうなりますか」
「谷へは出せん」
「でも、灯りはもう坑夫さんたちに渡しました! 昨日の夜も、奥の坑道で使ってくれて——」
「灯りの代は、払う」子爵は懐から革袋を出して卓に置いた。硬貨の音がした。「銀で。組合の値でな。銅では払えん」
「銀じゃ、線は引けません」
「知っている」
子爵は卓の上で両手を組んだ。太い指の節に、黒い粉が線になって入り込んでいた。
「保持者殿。坑夫の麦は、どこから来ると思う」
アルノは答えられなかった。
「組合の荷だ。この谷あいは、麦が育たん。塩もない。坑夫とその家族、町の者を合わせて、冬を越す口が千と少しある。組合の荷が止まれば、春までにそのうち何人が残るか」子爵は窓の外を見た。坑道の口が段になって並んでいる。「灯りで死ぬのは、去年は三人だった。麦が止まれば、三人では済まん」
「……組合さんは、本当に麦を止めますか」
「止めるとは書いていない。止めない、とも書いていない」子爵はアルノを見た。「谷の灯りは、いい灯りだ。私は谷が嫌いではない。オスヴィンも、あの灯りに惚れている。だが、選べない」
「それでも、選んで——」
言いかけて、アルノは唇を閉じた。選べない人に、選べと言っているのは自分だった。谷の冬の麦のことで、イルゼと二人、帳簿の上で何度も同じ勘定をした。春まで食わせられる口の数。あの勘定の前では、自分も選べなかった。
広間が静かになった。窓の外で、坑道の水車が回る音だけがしていた。
「分かりました」
自分の声がひどく小さく聞こえた。アルノは立ち上がり、頭を下げた。子爵は頭を下げ返さなかった。目を逸らしもしなかった。
「灯りは、返しますか」
「返さん」子爵は言った。「代は払った。坑道の奥で使う。……春まで、もつ分だけな」
* * *
坑道の口の赤い山は、朝の光の中で昨日と同じ色をしていた。
組合の鉱石商が、手下に命じて延べ棒の数を帳面につけさせていた。アルノの横を通り過ぎるとき、男は軽く帽子に手をやった。勝った者の礼だった。昨日の日没のことは、一言も口にしなかった。
アルノは騾馬の背に空の壺を積んだ。谷へ帰る壺は三つ。どれも空だった。ボルクが隣で手綱を締めていた。
「……ボルクさん」
「何だ」
「昨日の、ぎりぎりの勝ちは」
「勝ちだ」ボルクは手綱を締め終えて、アルノを見た。「戦には勝った。銅は、別の場所で負けた」
アルノは頷いた。雲一つない空を見上げても、数えるものが何もなかった。帰りの三日、アルノは一度も空の話をしなかった。
町を出る坂の下で、子どもの坑夫が待っていた。坑道で壺に手を伸ばした、あの子だった。首から紐で、谷の壺を一つ下げている。子爵が坑夫の家に一つずつ配ったのだという。
「これ、春まで灯る?」
「灯ります。……春の前に、暗くなるかもしれません。暗くなったら、ごめんなさい」
「暗くなったら、谷で入れてくれる?」
子どもは壺を両手で抱えて、アルノの顔を見上げていた。アルノは答えようとして、喉が詰まった。谷の銅は来ない。谷の壺も、もうここへは来ないかもしれない。
「入れに来ます」ボルクが横から言った。「こいつは、数えたことは守る」
子どもは頷いて、坂を駆け上がっていった。胸の壺が、昼の光の中でも青く揺れていた。
出がけに、オスヴィンが見送りに来ていた。何か言うかと思って待ったが、オスヴィンは何も言わなかった。坑道の口の脇の石に腰を下ろし、膝の上で坑道の図の帳面を開いていた。
いちばん奥の坑道に、小さな印が三つ。去年死んだ三人の場所だった。オスヴィンの白い指が、その三つを押さえたまま、動かなかった。
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