第70話 谷を渡る一本
柱は、領主館の脇から峠の番小屋まで、谷の西半分を縦に貫いて並んだ。
雷木の柱の頭に、ルドミラの窯で焼いた白い陶器の輪を嵌め、その輪に銅の線を通す。線を引くのはヤネクだった。ハルデンの延べ棒を炉で焼き、雷木の板の穴を一つずつ細くして引き延ばし、巻いて、荷車で運んで、柱から柱へ張っていく。銅を握るヤネクの指は、一度も震えなかった。
子どもたちは、柱の穴を掘る手伝いをした。引き返してきた伯の村の小作たちは、尾根から雷木を切り出して運んだ。坂の途中の二つ目の曲がり角では、柱を岩の割れ目に楔で立てた。
最後の一本を番小屋の脇に立てる段になって、ボルクが坂の途中で腕を組んだ。
「小屋の脇に、柱を立てる気か」
「立てます! 送り手の卓の、すぐ外に」
「雷を呼ぶ柱を、あの壁の脇にか」
「線は雷を呼びません。呼ぶのは、線に触れてる人です」アルノは言った。「だから、線には誰も触りません。触るのは、送り手の卓の上の一か所だけです」
ボルクは長いあいだ坂の上の番小屋を見ていた。やがて、腕をほどいた。「柱は立てるな。軒の下なら、線を通していい。壁には、一本の釘も打つな」
番小屋の中の送り手の卓と、領主館の脇の受け小屋。二つの小屋の間に、谷の半分の長さの一本の線が渡った。峠の卓には、旗の係の子が一人、送り手として上がった。受け小屋の屋根には、雷よけの鎖が地面まで垂らしてあった。
線が通った日の昼、ベアタが受け小屋へ来た。
* * *
「試しの壺は、満ちてないんだろ」
ベアタは受け小屋の土間の、線の端に繋いだ壺を見下ろした。ルドミラの一型の壺で、口から銅の棒が一本、杭のように立っている。
「杭のそばに置いておけば、午後に満ちます」アルノは言った。「夕方の試しには、間に合います」
「知ってるよ。杭から満たせば、あんたの体は通らない」ベアタはアルノの左手を取り、脈を数えた。数え終えても、手を離さなかった。「だから、今日はあんたが満たしな」
「……え?」
「冬になったら、あんたは呼ぶ。壺が足りない、線が切れた、何とかが来た。止めても呼ぶ。あたしは知ってる」ベアタの指が、手首の上で拍を数え続けていた。「なら今、あたしの前で一本だけ呼びな。止まった心臓が、次の一本でどうするか、あたしは見ておかなきゃならない」
アルノは自分の左手を見た。包帯は取れていた。肩から指先まで、雷紋が赤黒い枝を広げている。薬指と小指は、ベアタの指に握られているのに、何も感じなかった。
「一本だけだよ。二本目を呼んだら、その場で板を打ちつける。窓じゃなく、あんたの寝台の周りに」
「……はい」
* * *
午後、尾根に雲が育った。
アルノは受け小屋の前の草地に立った。足元には壺があり、口の銅の棒が空を向いている。ベアタがすぐ脇に立って、アルノの右の手首を掴んで脈を取っていた。イルゼは受け小屋の戸口で帳簿を抱えていた。
雲の底が紫に沈み、空気が甘く焦げた匂いになった。
左手を空へ上げた。指先が震えていた。雷紋のある左腕が、肩から指先まで、皮膚の下で細かく跳ねている。岩の上で「し」まで数えて、そこで声が止まった日のことを、腕のほうが覚えていた。
「数えな」ベアタが言った。「いつもどおりに」
光った。
「いち、に、さん、し……」
声が出た。し、の先へ行った。ご。音が来た。
指先に、火花を一粒灯した。ぱち。
空が、答えた。
白い線が指から入った。肘を撫で、肩で折れて、体の外へ抜ける。一年前なら胸を通ったものが、今は腕の外側を滑っていく。選んだ一点、足元の壺の口の銅の棒へ、雷が真っすぐに落ちた。壺が内側から青く光り、線の上を青い糸が一瞬だけ走って、受け小屋の屋根の鎖へ逃げた。
膝は、つかなかった。左腕が痺れていた。指先から肘まで、細い糸で縛られたような痺れだった。胸の奥が一度だけ重くなり、それから、何事もなかったように拍を打ち続けた。ベアタの指が、手首の上でそれを数えていた。
「……乱れてない」ベアタは言った。手首を離した。「軽い焼けだ。一晩で引く」
舌の奥に、何かが残っていた。アルノはそれを、しばらく確かめていた。
「……銅の味がします」
「何だそりゃ」イルゼが戸口から言った。
「鍋の縁を舐めたときの味です! 線の味です、きっと!」
「おいおい。鍋を舐めんな」
草地の向こうで、湖の岸の葦が揺れた。白い影が、落ちたばかりの一点を目がけて、まっすぐに走ってくる。ヴォルタは壺の前で止まり、口の銅の棒に鼻を寄せて、喉の奥で低く鳴いた。毛並みが帯電して、ちりちりと青く光った。
「だめです、ヴォルタさん! それは線の壺です!」
ヴォルタはアルノの顔を見上げ、それから壺を見て、もう一度鳴いた。
「ヴォルタさんの分は、杭の根元にあります!」
「交渉すんな、獣と」イルゼが言った。
* * *
夕方、雷雲は尾根に沿って東へ移っていった。
谷の東半分では、まだ雷が落ち続けていた。黒鉄尾根の穂先に一本、また一本。谷の西半分の空は雲が切れて、峠の上に夕日の赤い帯が出ていた。番小屋は、晴れた側にある。
受け小屋の中では、ハンネが硝子の針の前に座っていた。針と、地面に刺した短刀が、指一本ぶんの隙間で向き合っている。アルノはハンネの後ろにしゃがみ、イルゼは戸口に立っていた。
針の先に、火花が跳んだ。
大きな火花だった。白く、不揃いに、立て続けに三つ。尾根に落ちた雷が、線に乗ってきたのだった。
「今のは、空」ハンネは顔を動かさずに言った。
また跳ぶ。今度は小さく、青く、揃っていた。とん、とん。間を置いて、とん、とん、とん。
「……今のが、峠」
ハンネの唇が動き始めた。指は折らなかった。尾根の雷が線に乗るたびに、白い火花が不揃いに割り込んでくる。ハンネはそれを一度も数えなかった。小さく揃った青い拍だけを拾って、唇の中で字に直していく。
受け小屋の窓の外に、谷があった。
夕暮れの谷の東で、尾根の上に雷が次々と落ちていた。紫の雲の底から白い枝が伸び、穂先を打ち、音が谷底を転がってくる。
その下を、谷の西半分を縦に貫いて、雷木の柱が並んでいた。領主館の脇から、湖の岸を過ぎ、坂の曲がり角の岩を抜けて、峠の頂の番小屋まで。どの柱の頭にも、ルドミラの白い碍子が、夕日を受けて小さく光っている。
碍子から碍子へ渡る一本の線は、細すぎて、ここからは見えなかった。
雷は尾根に落ちるたびに、谷じゅうを白く照らし、音で揺らした。その下を、光りもせず、音も立てずに、ボルクの言葉が峠から谷へ下りてきていた。雷よりずっと静かに、谷の端から端まで、一息に。
アルノは数えていなかった。空が光っても、唇が動かなかった。
「坊ちゃん」戸口のイルゼが、声を落とした。「雷、落ちてるぞ。数えなくていいのかよ」
「今は、ハンネさんの番です」アルノは囁いた。「雷は、明日も落ちます。この一通は、今日しか来ません」
「しっ」ハンネが針から目を離さずに言った。「二人とも、うるさい。拍が混ざる」
受け小屋の針が、最後に一つ跳んで止まった。
ハンネが顔を上げた。
「……『退き口は』」
受け小屋の中が、一拍、静かになった。
戸口で、イルゼが帳簿で顔を覆った。肩が震えていた。笑いをこらえている震え方だった。
気づけば、アルノは立ち上がっていた。窓から身を乗り出して、見えない線の先の、夕日の中の峠へ向かって叫んだ。
「ボルクさん! 最初の一通が、それですか!?」
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【第7章「どちらにします」のあらすじと登場人物】(第61〜70話)
■あらすじ
手元は金貨四枚、口は六百。アルノは壺の雷を銅の線で渡す「雷信」を思いつき、王都で第二王女シルヴィアから、一年のうちに谷から王都へ手紙を届けよという条件を受けて、線を谷の物として引く道を選ぶ。組合の締め出しで壺は返されたが、ハルデンの銅と取り替え、峠から谷へ最初の一通が届いた。
■登場人物
◆アルノ・ブラウエン
左腕を吊ったまま、壺の雷を銅の線で渡す雷信を形にした保持者。王女の前では、王家に預ける道を選ばず「谷のです」と答え、一年の期限を背負った。王弟に「何人殺せる」と問われて答えられず、倒れた兵の数を訊かずにいた自分に気づく。
◆イルゼ
ザーラ谷の財務官。王女に利率を値切ってすべて退けられ、王弟には「売り物じゃねえ」と言い返した。組合の申し出を自ら断ると、壺の灯りを銅の延べ棒と取り替える策を考え出し、ハルデンの代理人と一本半で話をまとめた。
◆ハンネ
十一歳になった谷の子。拍を行と段に分けて字を送る符号を思いつき、間合いを賭けて三度勝った。最初の一通には信手のお給金の要求を仕込み、峠から届いた拍を、尾根の雷の火花に惑わされずに読み解いた。
◆ボルク
峠の守りの長。番小屋の壁に釘一本打たないことを条件に、軒の下へ線を通すことを許した。伯が麦の値を戻したのを「次の手の支度だ」と読む。峠から谷へ渡った最初の一通は、いつもの彼の問い「退き口は」だった。
◆ズデンカ
黒羽団の頭。矢傷を負った手下三人の名を告げ、自分が覚えておくだけでは足りないと、アルノの帳面に書き留めさせた。王都へ向かう一行を、伯の領地を抜けるまで隊で送り届けた。
◆ベアタ
谷の医師。窓に板を打たせて療養中のアルノを雷から遠ざけた。冬が来れば止めても呼ぶだろうと見越し、自分の目の前で一本だけ呼ばせる。止まったことのある心臓が乱れないのを確かめ、「軽い焼けだ」と告げた。
◆シルヴィア
ヴェルンシア王国の第二王女。帳簿に埋もれた執務室で挨拶もなく「見せて」と言い、里数、柱の数、銅の値、持ち主を短く問い詰めた。雷信を王家の物にするか谷の物にするか、二つの欄を示して選ばせ、二年を求めるアルノに「一年です」と返した。
◆ベルンハルト
宮殿の回廊で出会った、軍装の大男の王弟。伯の千五百を退けたアルノを褒めた直後に「で、何人殺せる」と問い、直轄軍のために壺を買い上げようとした。断られても笑い、「数えられるようになったら、また来い」と言い残した。
◆アンゼルム・ラッセル
ミルデの商人組合長で、イルゼのかつての雇い主。早馬で王女との約束を先に知り、雷信が値を決める速さそのものだと一目で見抜いた。壺の締め出しを告げたうえで雷信を組合で引き取ると持ちかけ、断られた翌朝には銅の値を倍にした。
◆ヤネク
雷に打たれた過去を持つ鍛冶。鉄では震える指が樽屋の銅釜では震えないと知り、釜を叩いて谷で最初の銅線を引いた。組合の麦のために壺を返しに来た昔の仲間には、組合の麦が要らない春にまた来いと告げ、柱から柱へ線を張り続けた。




