第69話 麦の値
峠の番小屋の前で、二台の荷車がすれ違った。
朝の早い時刻だった。峠の頂に冷たい霧が薄く残り、西の坂を上がってきた一台目の荷車の側板に、麦の穂と雨粒三つの紋が見えた。レーゲン伯家の荷車だった。麦袋を満載し、御者の脇に伯の家令が乗っていた。灰色の髪を後ろへ撫でつけた、ミルデの競りで百五十と言った男だった。
一台目が番小屋の前で止まるのと同じころ、峠の北西の脇道から、二台目の荷車が出てきた。紋はない。古い荷車で、車輪の片方が歪み、御者台には痩せた五十過ぎの男が座っていた。
アダルベルトだった。
二台の荷車は、番小屋の前の狭い道で互いに道を譲り合い、車輪の軸が擦れるほどの近さですれ違った。家令は帽子の鍔に手を触れた。アダルベルトは前を向いたまま、会釈を返さなかった。
アルノは番小屋の脇で、両方の荷車を交互に見ていた。
「イルゼさん、あの二台、どっちも麦ですよね!?」
「見りゃ分かる」
* * *
家令は荷車から下りて、アルノに革の筒を差し出した。
「伯より。峠の西の麦は、本日から谷へも元の値でお売りいたします。これは、その最初の荷です。代金は、元の値で」
アルノは筒から手紙を抜いて、声に出して読んだ。伯の字は、手帳と同じ几帳面な字だった。
保持者殿。峠の西の麦の値を、谷に対してのみ倍としておりましたが、本日をもって元に戻します。記録によれば、値を上げてから、あなたの谷の口は増えました。私の村から下りた者も、坂の途中から戻った者も、谷の口に入りました。値を上げれば減る、という私の見込みは外れました。戻せば減るのか。記録を取らせていただきます。
アルノは手紙から顔を上げた。
「伯爵さん、外れたって書いてます!」
「タダで値を戻す奴じゃねえ」イルゼは家令の顔を見ながら言った。「値を上げても口が減らねえなら、上げてる分だけ伯が損する。麦が余って、谷の外で値が崩れる。……負けた手を、損の出る前に捨てたんだ」
家令は何も言わなかった。帽子の鍔に手を触れ、麦袋を下ろす人足たちのほうへ歩いていった。
麦が下ろされるあいだ、家令は番小屋の脇の岩に立って、谷を見下ろしていた。伯と同じ形の手帳を開き、鉛筆を動かしている。湖の岸の芝屋根の列、骨組みだけの小屋、朝の煮炊きの煙。一本ずつ、数えているようだった。
「何を書いてるんですか!?」アルノが岩の下から訊いた。
「煙の数です」家令は手帳から目を上げなかった。「伯は、口の数は煙で数えよ、と。値を戻した朝の煙を、記録しておくようにと言いつかっております」
「春にまた数えに来るんですか」
「伯のご判断です」
* * *
アダルベルトは荷車の脇に立ったまま、番小屋の陰から出てこなかった。
アルノが近づくと、アダルベルトは古い麦袋を一つ叩いた。袋の口の縫い目が、村の女の手で何度も繕ってある。
「村の取り分だ。伯の倉に量られる前に、脇へ除けておいた分」アダルベルトは声を落とした。「十袋。去年の値で買ってくれ」
「アダルベルトさん……いいんですか。伯爵さんに、見つかったら」
「伯は悪い領主じゃない」アダルベルトは、峠の西の、自分の村のある方角を見た。「十年前の日照りを二月前に当てて、村から一人も死なせなかった。村の者は今も、朝に伯の天気の掲示を見て畑に出る。……だが今年は、麦が焼けた村もある。倉に量られた分は、秋の値でしか戻ってこない」
「焼けたって、雷ですか」
「伯の兵が、谷へ下りた日の留守に。火の番が足りなかった」アダルベルトは麦袋から手を離した。「下りた者のうち、百と少しが戻らなかった。谷にいるんだろう」
「はい。谷の口に入りました。自分で選んだ人たちです」
「なら、あいつらの食う分だ」アダルベルトは言った。「春に、村長は若い者を谷へやらんと言った。あれは変わらん。だが、麦が焼けたら考えると言った。……今年、焼けた」
イルゼが帳簿を開いて前へ出た。
「去年の値で、十袋。払う」ペンを走らせ、金庫の鍵の紐に手をかけた。「伯の元の値より安いな、これ」
「去年の値だからな」
「礼は言わねえよ。財務官が礼を言うと、値が崩れる」イルゼは顔を上げずに代金を数え、小さな袋に入れて差し出した。袋がアダルベルトの手に渡る時、低い声で付け足した。「……助かった」
アダルベルトは代金を受け取ると、荷車を峠の北西の脇道へ回した。伯の家令の荷車がまだ番小屋の前で荷を下ろしているうちに、歪んだ車輪を軋ませて、霧の残る脇道へ消えていった。
* * *
昼前、二台ぶんの麦が谷へ下りていった。
アルノは番小屋の外の岩に腰を下ろし、伯の手紙を膝の上で広げ直した。ボルクが戸口に立って、谷へ下りる麦の荷車を目で送っていた。
「ボルクさん。伯爵さんは、どうして値を戻したんでしょう。イルゼさんは、損を捨てたって言いましたけど」
「損を捨てた。それと、次の手の支度だ」ボルクは言った。「強い奴は、負けた手に執着しない。……で、次の手は、手紙のどこかに書いてある」
「どこかに……」
アルノは手紙の頁をめくった。一枚目の最後の行で終わったと思っていた手紙には、二枚目があった。二枚目には、一行しか書いていなかった。
なお、評議会は春に峠の件を審議します。
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