第68話 北の道の銅
「金がねえなら、物で払う」
朝の帳場で、イルゼは帳簿を開くなりそう言った。昨夜のうちに何かを決めた顔だった。目の下に、隈があった。
「物って、何をですか」
「そこに二十三ある」イルゼはペンで壺置き場の方角を指した。「組合の外で、組合の麦も塩も要らねえ客。壺の灯りに、金じゃなく物で払える客。……一人いるだろ」
アルノは三つ数えるほどのあいだ考えて、ぱっと顔を上げた。
「ハルデンの、オスヴィンさん!」
「鉱山の坑夫は、組合の麦を食ってる。けど、鉱山が掘ってるのは銅だ」イルゼは帳簿の余白に、壺の絵と延べ棒の絵を描いた。下手な絵だった。「壺の灯りと、銅を取り替える。値は、組合の秤を通さねえ。あたしとオスヴィンで決める」
「イルゼさん、天才ですか!?」
「おいおい、ハンネにも同じこと言ってたろ。安売りすんな」
峠の郵便で手紙を出して七日目の夕方、番小屋の旗が谷の中継を伝って白を振った。人が来る、という合図だった。
アルノとイルゼは坂を駆け上がった。アルノが先に立ち、二つ目の曲がり角で振り返って、息を切らしたイルゼを待った。
「イルゼさん、遅いです!」
「こっちは帳簿を抱えてんだよ! あんたは手ぶらだろうが!」
「帳簿、持ちましょうか」
「触んな。あたしの商売道具だ」イルゼは帳簿を抱え直し、アルノを追い越した。「交渉の前に、谷の財務官が息切らしてたら値が下がる。……先に行け。あたしは歩いて行く」
* * *
番小屋の前の空き地に、騾馬が六頭、背に荷を積んで繋がれていた。
オスヴィンは番小屋の戸口の日陰に立っていた。日に当たらない白い顔は夏に見たときと同じで、上着の襟に黒い粉がこびりついている。ボルクが小屋の中から腰掛けを一つ出してやったが、オスヴィンは座らなかった。
騾馬の背から、坑夫たちが荷を下ろしていく。藁の包みを解くと、赤い延べ棒が夕日を浴びて鈍く光った。一本が腕ほどの長さで、坑夫が一人で一本ずつ抱えて運ぶ。
アルノは延べ棒の山の前にしゃがみ込んだ。「すごいです……! これ全部、線になるんですよね!?」
「一本で、何歩ぶんになるかは知らんが」オスヴィンは手元の帳面を開いた。坑道の図の頁を飛ばして、何も書いていない白い頁を出した。「組合が寄り合いで決めたことは、ハルデンにも来ている。鉱山の銅は、組合の値でしか売らない。……売るならな」
「売るんじゃなくて、取り替えるんです」
「そうだ。だから来た」オスヴィンは藁の中の一型の壺を一つ取り上げ、覗き込んだ。光の消えた釉の肌を、指でなぞった。「満ちた壺なら、ハルデンに着いて半分。半分で、坑道の奥が二晩見える。夏の三つで、坑夫はもう、火を持って奥へ入るのを嫌がるようになった」
イルゼが帳簿を開いて前へ出た。
「壺一つに、延べ棒二本」
「一本」
「二本。坑道の二晩ぶんの命だ。銅の延べ棒一本より安いって言う気か」
「壺は、谷へ戻せばまた満ちる。延べ棒は、掘らなきゃ出てこない」オスヴィンは表情を変えなかった。「一本半」
イルゼは帳簿の上で指を三度叩き、止めた。
「一本半。その代わり、空になった壺はそっちの騾馬で番小屋まで返す。運び賃は、そっち持ち」
「……それでいい」
オスヴィンは帳面の白い頁に、一行だけ書いた。壺一つ、延べ棒一本半。それから、ためらうようにその下にもう一行を書き足した。アルノは覗き込んで、その字を読んだ。去年の三人の名前だった。
「灯りのある坑道では、死ななかった者たちだ」オスヴィンは帳面を閉じた。「取り替える値の、根っこにある」
坑夫たちが、谷から運び上げてきた壺を騾馬の背に積み直し始めた。返されてきた二十三のうちの、満たし直した壺だった。藁で一つずつ包んで、騾馬の両脇に二つずつ振り分ける。壺の口から、夕方の薄暗がりに青い光がわずかに漏れた。
ボルクが番小屋の戸口から、それを黙って見ていた。アルノはオスヴィンに向き直った。
「組合の値を通さないで、いいんですか? 子爵さんは、怒りませんか」
オスヴィンは、北へ下りる細い道のほうへ目をやった。
「ラデク様は……ハルデン子爵は、組合に借りがある」少し間を置いて、言葉を選ぶように続けた。「鉱山は、組合の麦で坑夫を食わせている。これは、取り替えだ。売り買いじゃない。……子爵には、そう申し上げてある」
「申し上げてある、ってことは」イルゼが言った。「子爵は、まだ頷いてねえってことだろ」
オスヴィンは答えなかった。騾馬の背の壺の包みを一つ、手で押さえて具合を確かめた。
日が尾根の向こうに落ちかけていた。坑夫たちは騾馬の手綱を取り、その道のほうへ並び始めた。峠から北へ、ハルデンへ抜ける古い道だった。オスヴィンは最後に騾馬の列の脇へ立ち、振り返った。
「条件が一つある」
「何でしょう!」
「冬が明けるまでに、もっと漏れない壺を。三日で半分では、ハルデンまで運んで二晩しか持たない。坑道の数だけ年で契約すると言ったのは、その先の話だ」オスヴィンはアルノの顔を見た。白い顔の中で、目だけが坑道の奥のように暗かった。
「漏れない壺は、いつできる」
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