第67話 返ってくる壺
峠を下りた日の午後、最初の壺が返ってきた。
峠の西の村の鍛冶が、驢馬の背に壺を二つ括りつけて、番小屋の前で待っていた。ボルクが谷へ下ろしてよこした。鍛冶は領主館の戸口で帽子を取り、壺を土間に置くと、顔を上げないまま言った。
「組合の麦が、止まった。塩もだ。雷の壺を使う鍛冶には卸さねえって、村の世話役が組合から言われてきた。……貸し賃は、先月の分まで払ってある」
「はい。……ありがとうございました」
鍛冶は帽子をかぶり直し、一度も振り返らずに峠へ戻っていった。
アルノは土間の二つの壺を見下ろしていた。釉の肌に、鍛冶場の煤の指の跡がついている。毎朝、炉の前で、この壺の口に火口を当てていた手の跡だった。
「イルゼさん。貸し賃を半分にしたら、どうでしょう。冬のあいだだけでも」
「値の問題じゃねえ」イルゼは帳簿を閉じたまま言った。「タダで貸しても、組合の麦は来ねえんだ。あの鍛冶は、壺を返しに来たんじゃない。麦を取りに来たんだよ。組合の窓口へ」
「……じゃあ、谷の麦を」
「谷の麦は、谷の六百の分しかねえ」
次の日に三つ。その次の日に七つ。峠の西の村から、ミルデの細工通りの裏から、街道沿いの宿場の鍛冶場から。夏の終わりに、イルゼが一軒ずつ回って貸した壺だった。空になれば番小屋で満ちた壺と取り替える約束で、月に銀二十。組合の外の鍛冶たちは火付けの早さに目を丸くし、次の月の分まで前払いする者もいた。
壺は、どれも中の光が消えていた。釉の肌に、鍛冶場の煤がうっすらとついている。
夜になると、壺置き場の棚の前に白い影が下りてきた。ヴォルタは返された壺の口に一つずつ鼻を突っ込み、鼻を鳴らして次へ移った。どれも空だった。棚の端まで嗅ぎ終えると、ハンネの壺を据えた古い杭の根元へ戻り、背を丸めて、ふてくされたように尻尾で地面を叩いた。
* * *
四日目に来たのは、ヤネクの昔の仲間だった。
ペトルという、峠の西の宿場で鍛冶場を持つ男だった。ヤネクより背が低く、腕だけが同じくらい太い。壺を三つ荷車に積んで、ヤネクの鍛冶場の前で荷車を止めた。ヤネクは金床の前から動かなかった。
「悪い」ペトルは頭を下げた。深く下げて、しばらく上げなかった。「女房と餓鬼が三人いる。組合の麦がなきゃ、冬が越せねえ」
「分かってる」
「お前の谷の壺は、いい壺だった。炉の火が、朝いちばんで一度で点く。あんなの、生まれて初めてだ」
「分かってるって言ってんだろ」ヤネクは金床の上の銅の棒を叩いた。一つ、また一つ。「……春になったら、また来い。組合の麦が要らねえ春なら」
ペトルは荷車から壺を下ろし、鍛冶場の戸口に並べた。並べ終えると、もう一度頭を下げて、荷車を引いていった。
ヤネクは最後まで顔を上げなかった。銅の棒を叩く音だけが、間を空けずに続いていた。
* * *
壺置き場の棚に、返された壺が並んでいった。
ハンネが一つ受け取るたびに、棚の端から順に置いていく。アルノはその横に立って、一緒に数えた。最初の日は、声に出して数えた。
「いち、に!」
三日目には、声が小さくなっていた。
「……じゅういち、じゅうに」
帳場では、イルゼが帳簿の頁を閉じられずにいた。王都の麦市で買った冬の麦と、峠までの荷馬車の賃。ミルデでは倍になった値の銅を、予定の半分も買わずに止めた。王家から借りた三百のうち、残ったのは、峠の西の倍の麦を冬の終わりに買い足す分だけだった。
「入ってくるはずの貸し賃が、冬のあいだ、ゼロ」イルゼはペンの尻で頁を叩いた。叩いても、数字は動かなかった。「借りは三百増えた。一割五分。残りは、春までの麦で消える。銅は、峠まで引くには足りねえ」
「……借金だけ、増えました」
「言うな。あたしが一番よく知ってる」
昼過ぎ、尾根に雲が育ち始めた。紫の底から、一本目が黒鉄尾根の西の肩に落ちた。
アルノは壺置き場の棚の前に立ったまま、振り返らなかった。唇が一度だけ動いて、止まった。いち、とも言わなかった。二本目が落ち、音が壺置き場の屋根を震わせた。棚に並んだ壺の口が、一斉に白く光を映して、また暗くなった。
イルゼが帳場から顔を出した。窓の外が光っているのに、壺置き場から数える声が聞こえてこない。それが、この一年でいちばん静かな午後だった。
「坊ちゃん」
「はい」
「数えねえのか」
「……今日は、壺を数えてるので」アルノは棚の端の壺に、右手で触れた。冷たかった。雷を入れれば、また光る。入れても、使う者がいない。「私、組合の人たちが困れば、みんな谷の壺を選んでくれると思ってました。火が一度で点くから。便利だから。……麦と塩のほうが、ずっと大事なのに」
イルゼは返事をしなかった。帳場の戸口に寄りかかって、雷の光を映す壺の列を眺めていた。
六日目の夕方、最後の荷が峠から下りてきた。宿場の鍛冶が三軒ぶん、壺が八つ。ハンネはそれを棚に並べ終えると、小石の壺を抱えたまま、棚の端から端までを指でなぞった。唇を動かして、もう一度頭から数え直す。
アルノは棚の前にしゃがんでいた。
「ハンネさん。全部で、いくつですか」
ハンネは小石の壺を抱え直して、棚を見上げた。
「二十三、返ってきた。残ってるのは、二つ」
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