第66話 秤の向こう
王都を発つ前の日、イルゼは麦市で冬の麦を百ぶん買った。
「王都の麦は、組合の秤を通らねえ」イルゼは荷馬車屋に前金を払いながら言った。「その代わり、峠まで運ぶ賃が麦の値の三割だ。伯の倍よりはましってだけだよ」
麦の荷馬車を先に谷へ向かわせて、アルノとイルゼは南へ道を取った。銅は、ミルデの市で買う。王都からミルデを回って峠へ戻る道は、まっすぐ帰るより三日長かった。
ミルデの細工通りの角で、エーミルが二人を待っていた。
「組合から、呼び出しだ」エーミルは苦い顔で、秤と麦束の封蝋の書状を差し出した。「あんたらが今日着くことを、組合は昨日から知ってた」
「昨日から!? 私たち、ミルデに寄るって、誰にも言ってません!」
「言わなくても分かるんだよ。王都から谷へ、銅を買える町はここしかねえ」イルゼは書状の封蝋を爪で弾いた。「あのじじいは、人が次にどの店に入るかで飯を食ってる」
組合の建物までの坂を、イルゼは先に立って上った。石畳のどこが欠けていて、どの家の戸口に犬がいるか、見ないでも知っている足取りだった。
「イルゼさん、この坂、何回くらい上りました?」
「数えてねえ。取り立てた金を持って上って、取り立てられなかった言い訳を持って上った。……あんたんとこの前の保持者の時は、手ぶらで上った」イルゼは坂の上の、秤と麦束の紋を刻んだ石の門を見上げた。「今日は、何を持って上ってんだろうな、あたしは」
「線です!」
「あんたに訊いてねえ」
* * *
組合の広間は、一年前と同じ匂いがした。蜜蝋と、麦の埃と、秤の油。
広間の真ん中の大秤の皿の上に、雷壺が一つ載っていた。ルドミラの窯の一型だった。釉の色で分かる。夏の間に、峠の西の鍛冶の誰かに貸した壺のはずだった。
アンゼルム・ラッセルは秤の脇の椅子から立ち上がり、にこやかに両手を広げた。
「保持者殿。王女殿下とのお話は、うまくまとまったそうで。北風の十日、でしたね」
アルノは入口で立ち止まった。イルゼの顔から、表情が消えた。
「……何で知ってんだよ」
「相場というものはね、速さでも決まるんですよ」アンゼルムは笑いながら、秤の上の壺の肌を指で弾いた。乾いた、澄んだ音がした。「王都からミルデまで、組合の早馬なら三日。うちには早馬が百頭いる。宿場ごとに替え馬を置いて、昼も夜も走らせます。殿下が紙に二つの欄を書いたことも、三百の数も、昨日の夕方にはこの広間に届いていました」
「三日……」アルノは思わず呟いた。「線なら、一日です。いえ、線なら、もっと——」
「ええ、そうでしょう」アンゼルムは頷いた。「ですから、お話があるのです」
アンゼルムは書記に目で合図をした。書記が一枚の紙を広げ、読み上げた。
組合の者は、雷壺を借りず、買わない。組合の者は、銅と錫を、組合の値でしか売らない。組合の者でない鍛冶と細工師には、組合の麦と塩を卸さない。今月の寄り合いの決め。
読み終えると、広間が静かになった。
「一年前、あなたの硝子を一本、銀三で買うと申しました」アンゼルムは言った。「あれは、ただの物の値でした。今度は違う。あなたが引こうとしている線は、物の値を決める速さそのものです。早馬の百頭が、一本の銅の糸に負ける。組合が値を決められなくなる。……ですから、壺も線も、組合の外には置きません」
「締め出しじゃねえか」
「秩序ですよ」アンゼルムは笑みを崩さなかった。「その代わり、一つご提案を。雷信を、組合が引き取ります。線を引く銅も、中継の小屋も、組合が持ちます。保持者殿の王家への借りは、全部組合が肩代わりする。北風の十日に届かなくても、谷は取り上げられません。組合が王家に払いますから」
アルノは口を開けて、それから閉じた。王女の卓の一つ目の欄と、同じ形だった。持ち主の名前だけが違う。
「断る」
イルゼが先に言った。
「おや」
「この線は、谷の子どもが数えて打つんだ。組合の早馬の代わりに、秤の横で数えさせる気はねえ」イルゼは帳簿を胸に抱えたまま、アンゼルムの前へ出た。「坊ちゃん、そうだろ」
「……はい! お断りします」
アンゼルムはしばらくイルゼを眺めていた。取立てに出した娘を、窓口で出迎える顔だった。
「イルゼ。あなたの一割を、まだお支払いしていませんでしたね。約四十枚。今日なら、利息をつけてお支払いしますよ。雷信の話に、頷いてくれれば」
「利息つけて覚えときます」イルゼは言った。「そっちの帳簿に。あたしの帳簿にも」
アンゼルムは声を立てて笑い、秤の上の壺を、もう一度指で弾いた。
「銅は、組合の値で、いくらでもお売りしますよ。明日の朝、市が開いたら、どうぞ」
* * *
その夜、細工通りの宿の二階で、イルゼは手形の筒を枕元に置いて帳簿を広げていた。
「銅は、明日の朝いちばんに買う。昨日の値で、百五十ぶん。それで峠の番小屋までの線は引ける」ペン先が頁の上を走った。「それと、壺は返ってくるぞ。組合の麦を止められたら、鍛冶は壺より麦を取る。貸し賃は、冬のあいだ入らねえって思っとけ」
アルノは窓辺で、組合の建物の屋根を見ていた。屋根の上の風見が、夜の北風に回っている。
「アンゼルムさん、一目で分かったんですね。線が何をするか」
「分かるさ。あのじじいは、あたしに数字を教えた奴だ」イルゼは顔を上げなかった。「頭のいい敵ってのは、こっちが何を作ってるか、こっちより先に分かる。だから嫌なんだよ」
* * *
翌朝、組合の建物の前の掲示板に、人だかりができていた。
市の開く前の、薄青い時刻だった。アルノとイルゼは人の肩の間から板を見上げた。麦、塩、油、鉄、錫。値を書いた札が並んでいる。
銅の札だけが、新しかった。昨日の夕方に見た数字が線で消され、その横に、墨の乾ききらない字で、倍の値が書いてあった。
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