第65話 何人殺せる
執務室を出ると、廊下の窓の外は昼になっていた。
レオポルトが、証文の写しと三百の手形を革の筒に入れて渡した。手形は王家財務の印で、王都の麦市でもミルデの両替商でも金貨に替えられる、と彼は言った。それから、筒の蓋を閉める前に一つだけ付け足した。
「殿下は、二年と言った方に一年と言い返すのを、今日で三度目になさいました。前の二人は、一つ目の欄を選びました」
「……三人目は、どうなりますか」
「来年の北風の十日に、分かります」レオポルトは一礼し、執務室の戸の中へ戻っていった。
宮殿の回廊は長く、柱の影が石の床に同じ間隔で並んでいる。アルノは影を一つずつ跨いで歩いた。数えてはいなかった。数えそうになるたびに、イルゼの帳簿が肩を叩いた。
「一年だぞ」
「一年です!」
「嬉しそうに言うな。借りは増えたんだ。四枚の谷が、三百借りて、一割五分」イルゼは帳簿を胸に抱え直した。「……あの王女、一銅も動かなかった。取立ての窓口に座らせたら、あたしより稼ぐよ」
「イルゼさんより?」
「言わせんな」
回廊の角で、マティアスが待っていた。近衛の外套の襟を正し、兜を小脇に抱えている。アルノを見つけると、顔を明るくしかけて、すぐにそれを引っ込めた。マティアスの目は、アルノの後ろを見ていた。
回廊の向こうから、足音が来た。
硬い長靴の音が、十人ほど揃っている。先頭の男は、並んだ者たちより頭一つ大きかった。四十の終わりほどの年で、髭を短く刈り、肩幅が回廊の柱の間を塞ぐほど広い。軍装の上に外套を引っかけただけの格好で、歩きながら何か大声で笑っていた。
マティアスが回廊の端へ退いて、深く頭を下げた。背中が腰から真っすぐに折れていた。
「殿下」
男は足を止め、マティアスの肩を大きな手で叩いた。それから、アルノを見た。
「おう、お前が雷の谷の三男坊か。ブラウエンの、弟のほうの」声が回廊の天井に跳ね返った。「王弟ベルンハルトだ。伯の千五百を正午の水で転がしたと聞いた。見事だ」
「……ありがとうございます、殿下」
「で、何人殺せる」
アルノは返事ができなかった。
回廊の柱の影が、足元に並んでいた。一つ、二つ。数えられる影だった。平地の水の上の、倒れた盾と倒れた人。起き上がらなかった数を、伯は自分で数えていて、アルノは聞いていない。聞かなかった。
「晴れの日は、何人だ。谷の外では。壺一つで何人」ベルンハルトは答えを待たなかった。「壺は三日で半分になると聞いた。なら、谷から三日で届く戦場でしか使えん。三日の外では、ただの坊やだ。……違うか」
「……違いません」
「正直でいい」ベルンハルトは笑った。「直轄軍で、谷の雷を買う。壺を百でも二百でも。代金は金で、今払う。王家財務への借りは、俺が兄上に言って消させる。雷の使い手には、将の席を用意する」
「売り物じゃねえ」
イルゼだった。帳簿を胸に抱えたまま、王弟の顔をまっすぐ見上げていた。後ろの十人が、一斉にイルゼを見た。
「谷の財務官です」アルノは慌てて一歩前に出た。「……でも、イルゼさんの言うとおりです。壺は売ります。灯りにも、鍛冶の火にも、鉱山にも。でも、何人、で数える売り方は、しません」
ベルンハルトは怒らなかった。声を上げて笑い、大きな手をアルノの吊った左腕の上に軽く置いた。包帯の上から、二度叩く。その重さが、肘から肩へ伝わった。
「数えられんか」
「……はい」
「なら、今はいい」ベルンハルトは手を離し、歩き出した。後ろの十人が揃って動いた。「雷は、戦場の天気だ。天気を持っている者は、いずれ数えることになる」
回廊の角で、王弟は一度だけ振り返った。
「数えられるようになったら、また来い」
長靴の音が遠ざかっていった。マティアスはまだ頭を下げたままだった。足音が角の向こうに消えてから、ようやく背を起こした。額に汗が浮いていた。
「馬鹿。殿下に向かって、しません、はねえだろ」マティアスは早口で言った。「殿下は腕のいい奴が好きなんだ。直轄軍に雷があれば、殿下は——」
「兄上」
「……いや、いい。お前の谷だ。お前が決めろ」マティアスは兜を抱え直した。「ただ、覚えとけ。王宮で、あの方ほど話の早い人はいない。王女殿下は帳簿で話す。王弟殿下は、人数で話す。どっちの話が先に済むか、そのうち分かる」
アルノは返事をしなかった。マティアスもそれ以上は何も言わず、回廊の向こうを見ていた。
* * *
宮殿の門を出ると、王都の空は乾いて高かった。雲は西の端に薄く一枚あるだけで、どこにも育っていなかった。
アルノは門の石段に腰を下ろし、吊った左腕を膝に載せた。王弟に叩かれたところが、まだ重かった。
「……イルゼさん。伯爵さんの人たちは、何人、起き上がらなかったんでしょう」
イルゼは隣に立ったまま、しばらく答えなかった。帳簿を開き、閉じた。
「知らねえ。伯が数えてる。あたしの帳簿には、谷の者の名前しか書いてねえよ」
「私、訊きませんでした。ベアタさんが、伯爵さんが数えてるって言ったとき、ほっとしたんです」アルノは石段の上の自分の影を見ていた。「雷は、いくらでも数えられるのに」
「数えなくていい数もある」
「王弟殿下は、数えろって」
「あのおっさんは、兵の数で飯を食ってる。あんたは雷の数で飯を食ってる」イルゼは帳簿の角で、アルノの頭を軽く叩いた。「で、あたしは金の数だ。今日の数は、三百借りて一年。それだけ覚えとけ」
アルノは顔を上げた。門の内側の回廊の奥に、青い外套が一つ、まだ立っていた。マティアスは門のほうを見ていなかった。王弟の大きな背中が消えた角を、いつまでも目で追っていた。
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