第64話 どちらにします
第二王女シルヴィアは、アルノが口を開く前に言った。
「見せて」
挨拶も名乗りもなかった。アルノは藁をほどき、壺を卓の端に据えた。銅の線を卓の上に這わせ、帳簿の山を避けて向こう端まで渡す。その先に硝子の針を結び、卓の脚に立てかけた短刀の刃と、指一本ぶんの隙間を空けて向き合わせた。
左手が吊ってあるので、線の端はイルゼが押さえた。
「十日、揺られてきました。中身は、ほとんど残ってません」アルノは硝子の枝を壺に差した。短刀に近づけると、青い糸が細く伸びて、すぐに消えた。「……いち。一つぶんです。でも、拍には足ります」
「どうぞ」
アルノは線の端を壺の口に当て、離した。卓の向こう端で、針の先に青い火花が跳んだ。当てて、離す。また跳ぶ。朝の光の中で火花は小さく、大樹が帳簿の上に落とす青い筋よりも淡かった。
シルヴィアは瞬きもせずにそれを見ていた。驚いた顔はしなかった。三つ目の火花が跳んだところで、目を上げた。
「何里?」
「谷から王都まで、七十里くらいです」アルノは答えてから、慌てて付け足した。「馬車で十日の道です。私たちが来た道です!」
「線は、七十里を跳びますか?」
「跳びません。長いと拍が弱るので、五里ごとに小屋を置きます。小屋に壺と信手を置いて、受けた拍を打ち直します」
「柱は?」
「一里に四十本。……えっと」アルノは右手の指を折り、左手の指を足そうとして、吊った腕を見下ろした。
「二千八百」レオポルトが戸口で言った。顔色一つ変えなかった。
「何年?」
「二年、ください!」
シルヴィアは返事をしなかった。手元の紙に、何か短く書いた。それが二年なのか、別の数なのか、アルノの位置からは読めなかった。
「銅は、いくら?」
「で、いくら、はこっちの台詞だ」イルゼが線の端を押さえたまま言った。「……銅の値は、ミルデの組合が決めてる。碍子と柱は谷で作れる。人も谷で出す。銅だけは、谷の外から買う。一里引くのに金貨で二十。七十里で千四百。中継の小屋と壺は別」
「別で、いくら?」
「まだ数えてねえ」
「数えてから来てください」シルヴィアは言った。帳簿の欄を一つ埋めるだけの声だった。それから、紙から目を上げた。「最後の問い。誰が持つ?」
「谷です!」
アルノの答えを、シルヴィアは待っていたようだった。紙を裏返し、卓の上に二つの欄を書いた。細い、速い字だった。
「一つ。雷信を、王家の物にする。線を引くのも、守るのも、打つのも谷。持つのは王家。どの手紙を先に送るかは、王家が決める。代わりに、王家への借りは棚に上げます。線の銅にも、年に五分で貸します」
「五分!?」
「二つ。雷信を、谷の物にする。その場合、二年目の支払いは期日どおり、来年の夏の終わり。新しく貸すなら、年に一割五分。それから——」シルヴィアはペンの先で、二つ目の欄の下に線を引いた。「来年の北風の十日までに、谷から王都へ手紙が届かなければ、谷は王領に戻します。保持者は、替えます」
アルノの口が開いたまま止まった。「えっ……二年、って言いました! さっき、言いました!」
「聞きました。一年です」
「おい、ちょっと待て」イルゼが線の端を放し、卓に両手をついた。「一割五分は、ラッセル商会と同じ値だ。王家が、取立屋の値をつけんのかよ」
「取立屋の値を知っている人と、話しています」
「北風の十日ってのは、伯が執行状を持って来た、あの十日だ。わざとか」
「覚えやすいでしょう」シルヴィアの声は平らだった。「王家は、組合に借りがあります。宮殿の蝋燭も、兵の麦も、組合から借りた金で買っている。一年で届く線なら、王家は組合より先に物の値を知る。二年なら、組合が先に同じものを作ります。……一年です」
イルゼは卓を指で叩いた。三度叩いて、止めた。
「一割二分」
「一割五分」シルヴィアは紙から目を上げなかった。
「冬の麦の分だけでも、一割に。春まで六百の口を食わせる麦だ。王家の民の口だろうが」
「一割五分。王家の民の口だから、王家の帳簿で払います」
イルゼは口を閉じ、椅子の背にもたれた。耳に挟んだペンを抜き、また挟み直した。王女の前で、それだけしかできなかった。
「で、いくら要る」シルヴィアが訊いたのは、イルゼにだった。イルゼの口癖を、そのまま使っていた。
「……冬の麦で、百五十。銅で、百五十」
「三百」シルヴィアは二つ目の欄の脇に、その数を書いた。「一つ目なら、年に五分。二つ目なら、一割五分。同じ三百です」
アルノは卓の上の線を見ていた。窓辺の大樹を通った光が、銅の線の上にも一筋落ちていた。一つ目の欄を選べば、借金は棚に上がる。谷は冬を越せる。線は王家の物になって、王家の手紙が先に走る。
「殿下。線の上を走るのは、誰の手紙でもいいんです」アルノは言った。「でも、打つのは谷の子どもたちです。ハンネさんが、行と段で分けるって決めました。間は四分の三拍って、三回賭けて決めました。子どもたちが自分で数えて、自分で決めたんです」
「それで?」
「だから、谷のです。谷の子どもたちの数え方で、谷から王都まで渡したいんです」
「一年で」
「……一年で。一年で、やります」
シルヴィアはしばらくアルノの顔を見ていた。それから、吊った左腕の、包帯の先の二本の指に目を移した。
「あなたは、王家から借りた金で動く駒になります。駒が勝手に盤を選ぶのを、私は嫌いではありません」シルヴィアはペンを置き、紙をアルノのほうへ滑らせた。「ただ、盤から落ちた駒は拾いません。ここに書いた条件は、一つも緩めません」
イルゼが隣で長い息を吐いた。止めはしなかった。帳簿の上で、ペンの先が一度だけ跳ねた。
卓の上の線の向こう端で、針の先が最後に一つ、弱く跳んだ。壺の底の、残りの一滴だった。シルヴィアの目がそれを追い、アルノに戻った。
「どちらにします?」
「谷のです!」
「では、北風の十日に」
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