第63話 屋根裏の窓
峠の番小屋の前で、ズデンカの隊が馬を並べていた。
「伯の領地を抜けるまでだ」ズデンカは鞍の上から言った。「その先は王家の街道。あんたらの客の道だ」
「ありがとうございます! 峠の西まで、お願いします」
ボルクは番小屋の戸口に立って、荷車の積み荷を見ていた。藁に包んだ一型の壺が五つ。巻いた銅の線がひと束。硝子の針を入れた小箱。アルノの左腕は、まだ布で吊ってあった。
「退き口は」
「王都から、ミルデを回って帰ってきます。雪が来る前に」
ボルクは頷き、戸を閉めた。戸の内側の壁の名前は、伯が手をつけなかったまま、そこにあるはずだった。
* * *
王都までは、十日かかった。伯の領地の麦畑は刈り取りの終わった茶色で、畑の四隅に立てた鎖の柱が、夕日の中で細い影を引いていた。ズデンカの隊は領地の西の境で馬を返した。そこから先は、アルノが一年前に逆向きに通ってきた道だった。
毎晩、宿の土間でアルノは壺の藁をほどいた。硝子の枝を口に差し、土間に突き立てた短刀へ近づける。枝の先から伸びる青い糸が消えるまでの拍を、声に出して数えた。
「……ろく。ご。し」
晩ごとに数が減った。三日で半分、というのは、谷の中で杭のそばに置いた時の話だった。荷車に揺られ、夜露に当たると、減り方はもっと早い。
「王都に着いたら、いくつだ」イルゼが寝床から言った。
「一か、二です。……でも、拍には足ります。一つ跳べばいいので」
「あんた、それを王女さまの前でやる気かよ」
「やります!」
九日目の昼、街道が丘を回り込むと、右手の低い斜面に見覚えのある屋根が見えた。灰色の石葺き。煙突が二本。西の端に、屋根裏の小さな窓が一つ。
アルノは荷車の上で身を乗り出した。
「イルゼさん、あれ、うちです! あの窓から十年、空を見てました!」
「へえ」イルゼは帳簿から顔を上げ、目を細めた。「ちっせえ窓だな」
「小さいけど、西の空が全部入るんです。鱗雲も、金床の雲も」アルノは窓を見ていた。硝子に昼の光が白く当たって、中は見えない。窓の下の床板が今も外れるのか、父が直したのかは知らなかった。
「寄るか。半日の遠回りだろ」
「寄りません」
荷車が揺れ、屋根が丘の陰に入りかけた。アルノは首を回して、最後まで窓を見ていた。
「帰るのは、手紙を作ってからです。一日で届くのを作って、それで一通、書きます」
イルゼは何も言わず、帳簿に目を戻した。ペン先がしばらく止まっていて、それから何かを小さく書きつけた。
* * *
王都リーベックの東の門は、荷車と人で詰まっていた。門の石の下に、近衛の青い外套が一つ立っている。背が高く、兜を小脇に抱え、こちらの荷車を見つけるなり、人の列を肩で割って歩いてきた。
「アルノ! 遅いぞ、三日前から毎朝ここで待ってた」
「マティアス兄上!?」
マティアスはアルノの吊った左腕を見て、一瞬だけ口を閉じた。それから、いつもの早口に戻った。
「話は聞いた。伯と一戦やって、心臓が止まったって? 止まって戻ってくる奴があるか。で、腕は。……いや、いい、後で聞く。門の役人には俺が話を通しておいた。荷は調べさせない。財務の方から、お前が来たら通せと言われてる。俺に任せろ」
「財務の方、ですか? 王家の?」
「俺も会ったことはない。殿下の書記官が来てる」
マティアスが顎で示した門の内側に、灰色の外套の男が立っていた。帽子の鍔の下の顔は、三十前後の、どこにでもいそうな顔だった。男は帽子を取って一礼した。イルゼの目が、外套の裾から襟までをゆっくりと上がった。
「……ミルデの広場の」イルゼが低く言った。「二百六十の」
「王家財務の書記官、レオポルトと申します」男はそれ以上何も付け足さなかった。「執務室へご案内します。荷は、壺と線だけお持ちください」
* * *
宮殿の東の翼の三階、廊下の突き当たりの部屋は、帳簿の匂いがした。壁という壁が棚で、棚という棚に綴じた帳簿が詰まっている。窓は東に一つだけ。その窓辺に、硝子の大樹が置いてあった。
アルノは戸口で足を止めた。大樹は砂の中から掘り出した日の姿のまま、太い幹から枝が四方へ分かれ、枝先が霜の結晶のように細かく割れている。
朝の光がその枝を通り抜けて、窓の下の卓の上へ落ちていた。卓の上には開いた帳簿が三冊あり、その頁の上に青い筋が何本も、細く真っすぐに引かれていた。手紙に書いてあったとおりだった。
「……うちの、大樹です」
「今は王家財務の備品です」レオポルトが言った。「目録の番号も振ってあります」
「番号……」
「坊ちゃん。売ったんだよ。二百六十で」イルゼがアルノの背中を押した。「泣くな。王宮の帳簿に載ったんだ、出世だろ」
「泣いてません!」
奥の戸が開いて、入ってきたのは、アルノとさほど年の変わらない女だった。灰青の飾りのない服に、袖を肘まで捲り上げ、指先にインクの染みがついている。髪は後ろで一つに固く結い、歩きながら手にした紙の束を一枚めくった。
卓の前で立ち止まり、アルノとイルゼを順に見る。整った、細い、速い字と同じ目だった。
女は大樹の前の椅子を引き、自分が先に座った。
「座って。……時間は、あまりありません」
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