第62話 拍の符号
銅は、樽屋の小屋の裏にあった。
「酒を蒸した釜だ」寝台の上で、樽屋の年寄りは天井を見たまま言った。「わしの親父が峠の西から背負ってきた。谷じゃ雷が釜を嫌うってんで、三十年、屋根もかけずに転がしてある。持ってけ」
「いいんですか!?」
「酒を蒸す麦もねえ谷だ。釜が泣いてる」
釜は裏の草の中で緑に錆びていた。子どもが二人入れるほどの大きさで、胴に大きなへこみがある。ヤネクが木槌で叩くと、鈍い、長い音がした。
「鉄じゃねえな」ヤネクは釜の縁に手を当て、しばらくそのまま動かなかった。太い指は、縁の上でじっとしていた。「……震えねえ」
「銅なら、平気なんですか」
「知らねえ。鉄を持つと来るんだ、あの日の金床が。こいつは来ねえ」ヤネクは釜を叩き、もう一度自分の指を見た。「打てるぞ、坊ちゃん。細く延ばせばいいんだろ」
ヤネクは三日かけて、釜を叩いて板にし、板を切って棒にし、棒を炉で焼いては雷木の板の穴に通して引いた。穴を一つずつ細くしていくと、赤い棒が紐になり、紐が糸になった。四日目の朝、鍛冶場の梁から湖の方角へ、赤銅色の線が束になって垂れていた。
「釜ひとつで、何歩ぶんだ」イルゼが束の端を指でつまんだ。
「湖の岸までは、届きます!」
「王都までは」
アルノは束を見て、湖を見て、西の尾根を見た。「……釜が、たくさん要ります」
* * *
線は領主館の脇の壺置き場から湖の岸まで、四百歩ほどを渡った。雷木の杭を立て、ルドミラが焼いた小さな陶器の輪を杭の頭に嵌め、その輪に線を通す。線が杭に触れないように、杭が雨で濡れても線に水が伝わらないように。
「焼き物は、雷を通さないの」ルドミラは輪を指で弾いた。「窯の中で、一度も焦げなかった」
壺置き場の端で、アルノは線の端を握り、満ちた壺の口に当てて、すぐに離した。
岸では、地面に刺した短刀と、線の先に結んだ硝子の針が、指一本ぶんの隙間を空けて向き合っている。その隙間に、青い火花が跳んだ。
「来た!」岸からハンネの声がした。旗の係の子どもたちが、針のまわりにしゃがんで指を折っている。「一つ!」
アルノは線を当て、離した。当て、離した。
「二つ、三つ!」
「それです! 当てた数が、向こうで数えられるんです!」アルノは線を握ったまま岸へ叫んだ。「数が送れるなら、字も送れます!」
「どうやって」イルゼが帳簿を抱えて、岸と壺置き場の間に立っていた。
「字の順番の数だけ、当てます。あ、が一つ、い、が二つ、う、が三つ——」
「ん、はいくつだよ」
「……四十と、いくつか。数えたことがありません!」
「一文字で日が暮れる」
岸のほうから、ハンネが走ってきた。十一になって背が伸びたが、走り方は去年と変わらない。息を切らしたまま、アルノの手から線を取り上げた。
「行と段で分ければいい。領主さまが冬に教えた、字の表」ハンネは線を壺に当てた。とん、とん、と二つ。間を置いて、とん、とん、とん、と三つ。「か行の、う段。く」
アルノは口を開けたまま、ハンネを見下ろしていた。「……ハンネさん。天才ですか!?」
「おいおい、十一の子どもに何言ってんだ」イルゼが帳簿の陰から言った。
「賭ける?」ハンネは線を返した。「ハンネがいちばん速く数える」
賭けはその日の朝と夕方に三度行われた。岸の針の前に子どもたちが並び、壺置き場でアルノが打つ拍を、誰がいちばん早く字に直せるかを競う。
アルノが速く打つと、子どもたちの指が追いつかなくなった。行の拍と段の拍の間を半拍にするか一拍にするかで、アルノとハンネは本気で言い争った。
「一拍です! 間が短いと、行と段が混ざります!」
「半拍。一拍だと遅い。手紙が冷める」
「手紙は冷めません!」
「冷める」
三度とも、ハンネが勝った。間は、四分の三拍に決まった。
昼過ぎには、誰も線に触らなかった。尾根に雲が育つと、針の先で勝手に火花が跳び始めたからだ。一つ、二つ、間を置かずに五つ、六つ。尾根に一本落ちるたびに、針と短刀の間で、打った覚えのない青い火花が弾けた。
「今の、誰も打ってない」ハンネが針から顔を離した。
「空が、線に乗ってくるんです」アルノは岸にしゃがみ、火花の跳ぶ針を目を輝かせて見ていた。「すごいです! 尾根に落ちた数が、ここで数えられます!」
「で、昼の手紙はどうすんだよ」イルゼが言った。
「……昼は、送れません」アルノはしょんぼりと言った。「朝と、夕方と、夜だけです」
「旗より使えねえじゃねえか」
「旗より速いです!」アルノは顔を上げた。「旗は、谷の端から端まで、ボルクさんの砂時計で四半刻かかります。線は、当てた瞬間に向こうで跳びます」
* * *
夕暮れの湖の岸で、最初の一通を送ることになった。
壺置き場の送り手には、樽屋の孫がついた。脛を痛めて杖をついている少年で、旗の中継の曲がり角の係だった。何を送るかは子どもたちで決めていい、とアルノが言うと、少年は岸のほうのハンネと目を合わせ、真剣な顔で頷いた。アルノとイルゼは岸の針の脇にしゃがんだ。
西の尾根の向こうに日が沈みかけて、湖の面が赤く、針の先の空気だけが青かった。火花が跳んだ。跳んで、止まって、また跳ぶ。子どもたちが声を出さずに指を折る。ハンネだけは指を折らず、針の先を見たまま唇を動かしていた。やがて、火花が止んだ。
「……おきゅうきん」
ハンネは顔を上げ、アルノとイルゼを順に見た。
「信手のお給金。一日に銅貨いくら、って。返事は、明日の朝までに」
イルゼが帳簿を閉じた。
「てめえの給金を最初に送るな」
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