第61話 四枚と六百人
天幕の話し合いの翌日から十日のあいだ、寝台の部屋の窓には板が打ちつけてあった。
「見れば呼ぶ。呼べば、今度こそ止まる」ベアタはそう言って、ヤネクに雷木の板を削らせた。午後になるたびに板の隙間が白く光り、音が梁の土を震わせた。アルノは寝台の上で毛布をかぶり、光を数えないように耳をふさいだ。ふさいだ指の間から、音だけは入ってきた。
十一日目の昼、ベアタは杖を取り上げた。もう要らない、と言った。脈を数え、包帯の上から左腕を押し、それから窓の板に手をかけた。
「見るだけだよ。指は布団の中」
板が外れると、南の空に雲の塔が立っていた。湖から湯気を吸い上げて、底が紫に沈んでいく。一本目が尾根の西の肩に落ち、アルノの唇が勝手に動いた。いち、に、さん。声は出さなかった。四本目が尾根の真ん中の穂先に立ち、枝を空の半分へ広げて、窓の枠いっぱいを白く塗りつぶした。
「……今日のいちばん」
布団の中で、左手の二本の指を右手で握っていた。握られている感じは、右の手のひらにしか来なかった。ベアタは黙って窓の外を眺め、やがて戸口へ向かった。
「泣くんなら、板を戻すよ」
「泣いてません!」アルノは窓のほうを向いたまま言った。鼻の奥が、つんと痛かった。
* * *
雷が東へ遠のいた頃、戸口の柱が二度叩かれた。ズデンカが背をかがめて半地下の戸をくぐり、髪の黒い羽根が梁を掠めた。
「名前を訊きたいそうだな」
「はい! 矢傷の三人の、お名前です」アルノは天気帳を開いた。峠の見張りの若い者と、舟の子どもたちの名前の下に、ズデンカに訊く、と余白に書いてある。
ズデンカは窓の外の尾根を見たまま言った。「カレル。右の肩。ラドカ。腿。ヴィレム。脇腹を掠った。三人とも、もう馬に乗ってる」
アルノは右手で一つずつ書いた。左手で頁を押さえると、紙の手触りが三本の指にしか来ない。字が右へ傾いた。
「覚えておけ」ズデンカは言った。「あんたの谷のために矢を受けた名だ。あたしが覚えておく、だけじゃ足りない」
「覚えます。今、三回読みました」
「読むのと覚えるのは違う」ズデンカは羽根を指で直した。戸口で一度だけ振り返る。「……さっき、窓で数えてたな。口が動いてた」
「声は出してません!」
返事はなかった。羽根が戸の向こうへ消えた。
隣の部屋では、樽屋の年寄りが添え木の脚を寝台に投げ出していた。アルノが天気帳を抱えて入っていくと、年寄りは顔をしかめて天井を向いた。
「樽屋さん。お名前を、教えてください」
「樽屋でいい」
「でも、帳面に——」
「谷で樽を削れるのは、わしだけだ。樽屋と書いときゃ、誰のことか分かる」
アルノは帳面の最後の行を見た。空けておいた一行は、まだ白かった。「……じゃあ、冬が明けるまで、空けておきます」
「勝手にしろ」年寄りは目を閉じた。口の端がほんのわずかに動いた。
* * *
夜、卓の上に谷の金庫が置かれた。イルゼが帳簿の紐から鍵を外し、木の錠を回した。雷木の箱の底で、金貨が四枚、蝋燭の光を返した。
「いち、に、さん、し」
「数えんな。四枚は何べん数えても四枚だ」イルゼは帳簿を開き、ペンの尻で頁を叩いた。「言うことは三つ。口が六百。峠の西の麦は、谷に売る分だけ倍の値。で、冬が来る」
「倍のままなんですね、まだ」
「伯は頭も下げなきゃ、値も下げねえよ」イルゼは頁の下のほうを指で押さえた。「今ある麦で、冬至の前に倉が空く。それと、坂の途中で引き返してきた伯の村の連中。あいつらの口は、この勘定にまだ入ってねえ」
湖の岸の芝屋根の列の端に、雷木の骨組みだけの小屋が並び始めていた。引き返してきた者たちが、昼のうちに自分で組んだものだった。夜は焚き火を囲んで、谷の者たちと少し離れて眠っている。
「入れてください」
「言うと思った」
「選んだ人です」アルノは卓に右手をついた。「伯爵さんの兵として坂を下りてきて、泥の中から自分で立って、峠の上まで行って、それから自分で引き返してきたんです。去年の秋に、春になったら選んでもらうって言いました。あの人たちは、選びました」
イルゼは長いあいだペンを動かさなかった。それから頁の端に数字を一つ書き足し、その下に二本線を引いた。
「なら、倉が空くのは冬至より半月早い」
「……はい」
「どっから持ってくる。組合は論外。伯は倍。親父さんとこは、自分の麦で手一杯だ」
アルノは天気帳を開き、挟んであった手紙を抜いた。王家の紋と財務の印の封蝋。細い、速い字。最後の一行の脇の、赤い指の跡。
「谷の債権は、今は王家の物です。だから、借金の話は王家とします」アルノは手紙を卓の真ん中に置いた。「王都へ行きます。一日で届く手紙の話を、持っていきます」
「作れるのかよ。まだ一通も届いてねえぞ」
「作り方は、見えてます。旗の中継は、昼は布で、夜は火で知らせを渡しますけど、霧が出たら何も見えません。だから、霧でも消えないものを渡すんです」アルノの目が蝋燭の火を映して、きらきらし始めた。「雷です! 壺の雷を、線で渡します!」
「線って、何の」
「銅です。鉄は雷を呼びすぎるので」
「で、その線を王都まで引くのに、いくらかかる」
「分かりません! それを、王都で相談してきます」アルノは胸を張った。「王都へは、壺と、銅の線を持っていきます!」
イルゼは金庫の四枚を見下ろし、それからアルノを見た。
「銅なんか、うちのどこにあんだよ」
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