第60話 記録を直す
休戦の天幕は、谷へ下りる坂の下に張られた。
伯の使者は、戦の翌朝に来ていた。泥の平地から谷の者が担ぎ出した七百を返してほしい、返すまで峠の番小屋から動かない、と。イルゼは使者に帳簿を開いて見せ、領主が起きるまで待て、と言った。伯は三日、峠で待った。北風の止んだ峠で、雲の出る午後には兵を番小屋の陰に伏せさせ、朝になると手帳を開いて、谷の空を眺めていたという。
アルノは杖をついて天幕に入った。左腕を布で吊り、イルゼに右の肘を支えられていた。
伯は卓の向こうで立ち上がり、アルノが座るのを待ってから座った。卓の上に、伯の手帳が開かれていた。アルノも天気帳を開いて置いた。二冊の帳面が、卓の上に並んだ。
「七百は、お返しします」アルノは言った。「立てない人は、谷の人が荷車で峠まで運びます。その代わり、峠の番小屋から、兵を引いてください」
「承知しました」伯は即座に言った。「七百と番小屋。釣り合う取引です」
「それから——」
「債権は、残っています」伯は穏やかに遮った。「執行状も。私が峠から退くのは、兵を返していただくためです。谷の保持者が峠の守りを果たしていない、という評議会の認めは、何も変わっていません。峠の件は、次の評議会でもう一度申し上げます」
イルゼが、支えていたアルノの肘に力を込めた。アルノは頷いた。伯は頭を下げなかった。下げる理由がない、という顔だった。
「伯爵さん。一つ、訊いてもいいですか」
「どうぞ」
「三十日って、北風の日を数えて決めたんですよね」
「ええ。三十年のうち二十六年、あの十日のうちに秋の最初の北風が吹いています」
アルノの目が、ぱっと明るくなった。身を乗り出しかけて、吊った腕が痛んで、顔をしかめた。
「すごいです……! 私の帳面じゃ、北風の日を拾うので精一杯で、何日目かまでは——」
「敵の帳面に目を輝かせんな」イルゼが肘を引いた。「こないだ死にかけたばっかだろうが」
伯は、その二人をしばらく眺めていた。それから、自分の手帳に目を落とした。
「私からも、一つ」伯は手帳の頁を指で押さえた。「記録によれば、あの日の正午は遅いはずでした。一刻半。三十年、例外はありません。あの白い平地は、どんな夏も乾いていた。……保持者殿は、平地に水を張って、正午を早めた」
「三回しか、試してなかったんです」アルノは正直に言った。「段々畑に水を入れた日が、三回。三回とも、雲が早かっただけで」
「三回で、賭けたのですか」
「……賭けました」
伯は長いあいだ黙っていた。天幕の外で、北の尾根の上に今日の雲が育ち始めていた。
「記録を直します」
伯はペンを取り、手帳の余白に一行を書き足した。アルノの位置から、逆さまに読めた。谷に水を張った朝は、正午が早い。書き終えると、伯は顔を上げ、アルノの吊られた左腕の、包帯の先から覗く二本の指を見た。
「それから、あなたの体が一日に何本まで耐えるかも、次までに記録しておきます」
天幕の入口が開いた。伯の副官が、泥のついた長靴のまま入ってきて、革の筒を卓に置いた。
「峠を越えてきた早馬です。王都から。……封蝋が、王家の」
伯が筒を見て、ほんのわずかに眉を上げた。封蝋は王家の紋に、財務の印が重ねてあった。宛名は、ザーラ谷の保持者だった。
アルノは封を切り、声に出して読み始めた。手紙は短かった。整った、細い、速い字だった。
王家は、王領の保持者に対する債権を、先買権をもって買い戻します。レーゲン伯には、伯が商会に支払った額を、そのまま王家財務から支払います。ミルデの競売で硝子の大樹を落としたのは、王家財務の代理人です。大樹は、いま私の執務室の窓辺にあり、朝の光が枝を通って、帳簿の上に青い筋を落としています。
最後の一行の前で、字が一度止まった跡があった。アルノはそこで読むのをやめた。
伯は、アルノが読み上げるのを黙って聞いていた。聞き終えると、手帳を閉じ、立ち上がった。
「買値のまま、ですか」伯は言った。「損も得もない。……王家の財務は、私より先に数えていたようです」
「伯爵さん、執行状は——」
「執行状は、債権者の物です。債権者が替われば、紙は紙に戻ります」伯は手袋をはめた。「峠の番小屋は、今日のうちにお返しします。壁の名前には、手をつけていません。小屋の主に、そうお伝えください」
伯は天幕を出ていった。最後まで、頭は下げなかった。
* * *
夕方までに、七百は峠を上がっていった。坂の途中で引き返してきた者が、百と少しいた。伯の村から徴募された小作たちだった。
その夜、アルノは領主館の卓の上に、小さな箱を置いた。
雷木の箱だった。鉄の釘を一本も使わず、木の楔で組んであり、蓋には木の錠がついている。ヤネクが削り、ルドミラが錠の芯に焼き物を仕込んだ。アルノはその錠の鍵を、イルゼの前に置いた。
「谷の金庫です」
イルゼは鍵を見て、箱を見て、アルノを見た。
「……中身は」
「四枚です」
「去年の今ごろ四十一だった口が、十五倍だぞ。それで四枚残ってんのが奇跡だよ」イルゼは鍵を取り上げ、指先で重さを確かめた。それから帳簿の紐にくくりつけて、胸元にしまった。「預かる。財務官だからな」
「イルゼさんの金庫の、最初のです」
「谷のだろうが」
「谷のが、最初です。いつか、イルゼさんのも」
イルゼは返事をしなかった。帳簿を開いて、何か書きつけた。アルノが覗き込もうとすると、頁を手で隠した。
アルノは手紙を開き直した。最後の一行を、声に出して読んだ。
「谷から王都まで、一日で届く手紙を作れますか。作れるなら、債権の話をしに王都へ来てください。作れないなら、来なくて結構です。……どちらにします?」
署名は、ヴェルンシア王国第二王女、シルヴィア。その名の脇に、赤い蝋が一つ、指で押してあった。
「……競りの蝋だ」イルゼが爪の先で、その指の跡をなぞった。「ちょうど足りる額で落とした、あの客だよ」
窓の外で、夜の雷が一つ、尾根の上に光った。アルノは数えなかった。尾根から峠へ、峠から西へ、雷見の旗の中継が火で知らせを運ぶ速さを、頭の中で数えていた。光は、一瞬で谷を渡る。
「作れます!」
アルノは顔を上げて言った。それから、窓の外の光の消えた尾根を見て、手紙に目を戻した。
「……たぶん」
「たぶんはやめろ」
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【第6章「谷の朝」のあらすじと登場人物】(第51〜60話)
■あらすじ
谷の残債を買い取ったレーゲン伯は、三十日での一括返済を迫り、秋の最初の北風の朝に千五百の兵で谷へ下りてくる。アルノは堰を開いて平地に水を張り、正午を早めて雷の網で七百を倒すが、上限を越えた五本目のあとに心臓が止まった。命を取り留めた彼のもとに、王女から一通の手紙が届く。
■登場人物
◆アルノ・ブラウエン
ザーラ谷の保持者。伯が北風の朝を選ぶと帳面から読み、堰の水で正午を早める賭けに出た。水の膜に雷を這わせて七百を倒したが、舟の仲間を守るため上限を越えて五本を呼び、心臓が止まる。左手の指二本の感覚を失い、「命では、払いません。もう」と約束した。
◆イルゼ
商会の召還を断り、召還状の裏に自ら条件を書いて「ザーラ谷財務官」になった。戦の朝は千五百の兵の前に帳場机を出し、心臓の止まったアルノの胸の拍を、泣きながら数え続けた。目覚めた彼には、取立ての敬語で「五本目のお代」を問いただす。
◆ボルク
峠の守りの長。期限の前夜、伯の先遣に番小屋を囲まれると、部下の名を刻んだ壁を残し、決めたとおりに退いた。堰で倒れた樽屋の年寄りを背負って戻り、最後の舟からベアタを担いで岩の上へ駆けつけた。
◆ズデンカ
契約で谷に付く黒羽団の頭。伯の兵を手下に数えさせ、霧の湿地では葦から矢を射かけては消えて、千五百の列を何度も止めた。脚を射られた見張りの若者を担いで戻り、「一刻ぶん、あたしが買う」と遅い正午までの時を稼いだ。
◆ベアタ
谷の医師。止まったアルノの胸を拳で叩き、両手で押し続け、拍を数える役をイルゼに託して命を引き戻した。目覚めたアルノには、指二本の感覚は戻らない、それが五本目の値段だと告げる。
◆ハンネ
雷を数える谷の子。イルゼが谷に残るほうへ小石三つを賭け、戦の日は合図の旗を振って堰を開けさせた。舟へ逃がされる間際にも「今日、何本か」と賭けを持ちかける、変わらない図太さを見せた。
◆ウルリヒ・レーゲン
峠の西を治め、三十年の天気帳をつけるレーゲン伯。商会から谷の債権を買い取り、三十日の期限を秋の最初の北風が吹く日に合わせた。前年の仕掛けを先に潰して攻め込んだが、水を張った平地の雷に退く。休戦の席では「記録を直します」と手帳に一行を加えた。
◆樽屋の年寄り
谷に古くから住み、住民の声を代弁してきた老人。自分が削った堰の閂を抜く役を買って出て、水を吸って動かない閂を三度目にこじ開けた。水門に脚を挟まれ、背負われながら「わしの樽は、どれも水が漏れん」と呟く。アルノはまだ、この人の名を知らない。
◆シルヴィア
ヴェルンシア王国の第二王女。王家財務の印を押した手紙で、谷の債権を伯の買値のまま買い戻すと告げた。ミルデの競りで大樹を落とした名乗らない客も、その代理人だった。「一日で届く手紙を作れますか」と、アルノに次の問いを投げる。




