↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雷鳴の辺境伯〜借金まみれの『雷の谷』に追放された雷オタクの三男、落雷を資源に変えて最強の辺境を築く〜  作者: 雅龍(がりゅう)
第6章 谷の朝

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
59/142

第59話 拍を数える

 アルノの体が、岩の上で前へ傾いた。


 イルゼは掴んでいた左腕ごと、それを抱きとめた。頭が肩に落ちてきて、焦げた髪の匂いがした。顔を覗き込むと、目は半分開いたまま、どこも見ていなかった。唇から色が抜けていく。


「坊ちゃん」


 返事がない。


 イルゼはアルノを岩の上に仰向けに寝かせ、胸に耳を当てた。平地の向こうで盾の列が退いていく鎖の音も、湖の上で櫂が水を打つ音も、南の空の遠い雷鳴も、全部聞こえた。耳の下の、薄い胸の中からだけ、何も聞こえなかった。


「おい。起きろ。起きろって!」


 頬を叩いた。二度、三度。首ががくりと横へ倒れて、そのまま戻らなかった。


「婆さん!」


 叫んだ声が、自分の声に聞こえなかった。


「婆さん! ベアタ! 止まった、止まってる、こいつ——」


 舟着き場から、ボルクが走ってきた。背中に、ベアタを負っていた。六十を過ぎた医者を、最後の舟から引きずり下ろして担いできたのだった。ベアタはボルクの背から下りるなり岩によじ登り、アルノの首に指を当て、胸に耳を当て、顔を上げた。


「どれだけ経った」


「知らねえよ! さっき、数えてた。雷の後で、いち、に、って。し、で止まった」


「なら、まだ間に合う」ベアタは拳を握り、アルノの胸の真ん中へ振り下ろした。鈍い音がした。耳を当てる。首を振る。それから両手を重ねて、胸の上に置いた。「あんた、数えな」


「……は?」


「あたしが押す。あんたが数えるんだ。この子の拍の速さで」ベアタはイルゼを見ずに言った。「この子の数える声を、いちばん聞いてきたのは、あんただろ」


 ベアタの手が、胸を押した。


「いち」


 声が震えた。


「に。さん。し。ご」


 押すたびに、アルノの体が岩の上で揺れた。焦げた袖の下で、左腕の雷紋が、肩から指先まで赤黒く腫れていた。


「ろく、しち、はち……」


 一年前の夏、寝台の脇で、この男の息を数えて二日過ごした。硬貨を数える声を、数えても増えねえよと笑った。窓の外が光るたびに、この男は子どもみたいに数え出した。いち、に、さん。音が来るまで数えたら、もう怖くない。誰に教わったのか、一度も訊いたことがなかった。


「じゅう……じゅういち……」


 ベアタが手を止め、胸に耳を当てた。首を振った。また押す。


「いち、に、さん!」


 イルゼは叫んでいた。泣いていることに、自分では気づいていなかった。涙が顎から落ちて、アルノの焦げた襟に染みていく。


「数えろよ! あんたの番だろうが! いち、に、さん、し! 音が来るまで数えんだろ! 来てねえぞ、まだ来てねえだろうが!」


「続けな」ベアタの声は平らだった。「止めるんじゃないよ」


「ご、ろく、しち……!」


 三度目に、ベアタが手を止めた。


 イルゼは胸に耳を当てた。


 とくん、と鳴った。


 弱かった。一つ鳴って、長く黙り、もう一つ鳴った。つまずくように二つ続けて、また黙る。イルゼは耳を当てたまま、息を止めた。三つ目。四つ目。間が縮まっていく。拍が、ゆっくりと、拍の形に戻っていく。


「……いち」


 イルゼは、それを数えていた。止められなかった。


「に。……さん」


 ベアタが岩の上に尻をついて、長い息を吐いた。ボルクが帽子を取って握りしめ、平地のほうへ顔を背けた。


     * * *


 暗かった。


 誰かが数えていた。背中を叩く指があって、その指と同じ速さで、いち、に、さん、と数える声がする。毛布の中は暗くて温かくて、雷の音は、まだ来ない。


 お母さん、とアルノは思った。


 声が、違った。母の声よりずっと低くて、がさがさに掠れていて、数を数えるのにひどく口が悪い。数えろよ、と怒っている。あんたの番だろ、と。


 音が来た。遠くで。


 ああ、来た、とアルノは思った。音が来たから、もう怖くない。


     * * *


 目を開けたのは、三日後の昼だった。


 半地下の天井が近かった。寝台の脇の丸椅子で、イルゼが帳簿を膝に載せたまま、壁にもたれて眠っていた。


 アルノは左手を持ち上げた。包帯が肩から指先まで巻かれていた。指を動かす。親指、人差し指、中指。動く。薬指と小指も、動いた。動いているのが見える。


 けれど、何も触っていないような気がした。右手の指で、左の薬指をつまんでみる。つまんだ感触は右の指先にだけあって、左の薬指には何も来なかった。


「戻らないよ」


 戸口に、ベアタが立っていた。


「その二本は、戻らない。五本目の値段だ」ベアタは寝台の脇に来て、アルノの手首を取った。脈を数え、手を離した。「あんたの心臓は、あの岩の上で、数えて十二拍ぶん止まってた」


 アルノは、左手の二本の指を見ていた。


「……みんなは」


「死んだ者は、谷にはいない」ベアタは言った。「樽屋は脚を折った。歩けるようになるかは、冬が明けてから分かる。峠の見張りの坊主は矢傷。黒羽の三人も矢傷。舟の上で、子どもが二人、櫂で手を切った」


「伯爵さんの、人たちは」


「伯が自分で数えてる。あたしは聞いてない」


 アルノは長いあいだ黙っていた。それから、寝台の脇の卓に手を伸ばした。天気帳があった。右手でペンを取り、左手で頁を押さえる。押さえた紙の感触は、親指と人差し指と中指にだけあった。


 去年の夏、尾根の上で起き上がらなかった人たちの数を、この帳面に書いた。数えると言ったのは自分だった。


 今度は、数を書かなかった。一人ずつ、名前を書いた。峠の見張りの若い者の名前。黒羽団の三人は、ズデンカに訊く、と余白に書いた。櫂で手を切った子どもたちの名前。最後の行に、ペンが止まった。


 樽屋の年寄りの名前を、アルノは知らなかった。一年、谷にいて、一度も訊かなかった。


「樽屋さんの、お名前は……」


「本人に訊きな。隣の部屋で寝てる」ベアタは戸口で振り返った。「樽屋でいい、って言うだろうけどね」


 感覚のない二本の指で頁を押さえたまま、アルノはその行を空けておいた。


 椅子が鳴った。イルゼが目を覚ましていた。帳簿を膝に載せたまま、じっとこちらを見ている。泣き腫らした目を、隠そうともしなかった。


 イルゼは帳簿を閉じ、椅子の上で背筋を伸ばした。膝の上で両手を重ね、取立ての窓口に座る係の顔になった。声が、ひどく丁寧だった。


「保持者様。一つ、お伺いいたします」


「……はい」


「あの日の五本目のお代、保持者様の命でお支払いいただくところでございました。こちらは、まだ頂戴しておりません」イルゼは瞬きをしなかった。「お支払いは、いつになさいますか」


 アルノは天気帳を閉じた。感覚のない指が、表紙の上で滑った。


「……命では、払いません。もう」


読んでいただきありがとうございます!

「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。