第59話 拍を数える
アルノの体が、岩の上で前へ傾いた。
イルゼは掴んでいた左腕ごと、それを抱きとめた。頭が肩に落ちてきて、焦げた髪の匂いがした。顔を覗き込むと、目は半分開いたまま、どこも見ていなかった。唇から色が抜けていく。
「坊ちゃん」
返事がない。
イルゼはアルノを岩の上に仰向けに寝かせ、胸に耳を当てた。平地の向こうで盾の列が退いていく鎖の音も、湖の上で櫂が水を打つ音も、南の空の遠い雷鳴も、全部聞こえた。耳の下の、薄い胸の中からだけ、何も聞こえなかった。
「おい。起きろ。起きろって!」
頬を叩いた。二度、三度。首ががくりと横へ倒れて、そのまま戻らなかった。
「婆さん!」
叫んだ声が、自分の声に聞こえなかった。
「婆さん! ベアタ! 止まった、止まってる、こいつ——」
舟着き場から、ボルクが走ってきた。背中に、ベアタを負っていた。六十を過ぎた医者を、最後の舟から引きずり下ろして担いできたのだった。ベアタはボルクの背から下りるなり岩によじ登り、アルノの首に指を当て、胸に耳を当て、顔を上げた。
「どれだけ経った」
「知らねえよ! さっき、数えてた。雷の後で、いち、に、って。し、で止まった」
「なら、まだ間に合う」ベアタは拳を握り、アルノの胸の真ん中へ振り下ろした。鈍い音がした。耳を当てる。首を振る。それから両手を重ねて、胸の上に置いた。「あんた、数えな」
「……は?」
「あたしが押す。あんたが数えるんだ。この子の拍の速さで」ベアタはイルゼを見ずに言った。「この子の数える声を、いちばん聞いてきたのは、あんただろ」
ベアタの手が、胸を押した。
「いち」
声が震えた。
「に。さん。し。ご」
押すたびに、アルノの体が岩の上で揺れた。焦げた袖の下で、左腕の雷紋が、肩から指先まで赤黒く腫れていた。
「ろく、しち、はち……」
一年前の夏、寝台の脇で、この男の息を数えて二日過ごした。硬貨を数える声を、数えても増えねえよと笑った。窓の外が光るたびに、この男は子どもみたいに数え出した。いち、に、さん。音が来るまで数えたら、もう怖くない。誰に教わったのか、一度も訊いたことがなかった。
「じゅう……じゅういち……」
ベアタが手を止め、胸に耳を当てた。首を振った。また押す。
「いち、に、さん!」
イルゼは叫んでいた。泣いていることに、自分では気づいていなかった。涙が顎から落ちて、アルノの焦げた襟に染みていく。
「数えろよ! あんたの番だろうが! いち、に、さん、し! 音が来るまで数えんだろ! 来てねえぞ、まだ来てねえだろうが!」
「続けな」ベアタの声は平らだった。「止めるんじゃないよ」
「ご、ろく、しち……!」
三度目に、ベアタが手を止めた。
イルゼは胸に耳を当てた。
とくん、と鳴った。
弱かった。一つ鳴って、長く黙り、もう一つ鳴った。つまずくように二つ続けて、また黙る。イルゼは耳を当てたまま、息を止めた。三つ目。四つ目。間が縮まっていく。拍が、ゆっくりと、拍の形に戻っていく。
「……いち」
イルゼは、それを数えていた。止められなかった。
「に。……さん」
ベアタが岩の上に尻をついて、長い息を吐いた。ボルクが帽子を取って握りしめ、平地のほうへ顔を背けた。
* * *
暗かった。
誰かが数えていた。背中を叩く指があって、その指と同じ速さで、いち、に、さん、と数える声がする。毛布の中は暗くて温かくて、雷の音は、まだ来ない。
お母さん、とアルノは思った。
声が、違った。母の声よりずっと低くて、がさがさに掠れていて、数を数えるのにひどく口が悪い。数えろよ、と怒っている。あんたの番だろ、と。
音が来た。遠くで。
ああ、来た、とアルノは思った。音が来たから、もう怖くない。
* * *
目を開けたのは、三日後の昼だった。
半地下の天井が近かった。寝台の脇の丸椅子で、イルゼが帳簿を膝に載せたまま、壁にもたれて眠っていた。
アルノは左手を持ち上げた。包帯が肩から指先まで巻かれていた。指を動かす。親指、人差し指、中指。動く。薬指と小指も、動いた。動いているのが見える。
けれど、何も触っていないような気がした。右手の指で、左の薬指をつまんでみる。つまんだ感触は右の指先にだけあって、左の薬指には何も来なかった。
「戻らないよ」
戸口に、ベアタが立っていた。
「その二本は、戻らない。五本目の値段だ」ベアタは寝台の脇に来て、アルノの手首を取った。脈を数え、手を離した。「あんたの心臓は、あの岩の上で、数えて十二拍ぶん止まってた」
アルノは、左手の二本の指を見ていた。
「……みんなは」
「死んだ者は、谷にはいない」ベアタは言った。「樽屋は脚を折った。歩けるようになるかは、冬が明けてから分かる。峠の見張りの坊主は矢傷。黒羽の三人も矢傷。舟の上で、子どもが二人、櫂で手を切った」
「伯爵さんの、人たちは」
「伯が自分で数えてる。あたしは聞いてない」
アルノは長いあいだ黙っていた。それから、寝台の脇の卓に手を伸ばした。天気帳があった。右手でペンを取り、左手で頁を押さえる。押さえた紙の感触は、親指と人差し指と中指にだけあった。
去年の夏、尾根の上で起き上がらなかった人たちの数を、この帳面に書いた。数えると言ったのは自分だった。
今度は、数を書かなかった。一人ずつ、名前を書いた。峠の見張りの若い者の名前。黒羽団の三人は、ズデンカに訊く、と余白に書いた。櫂で手を切った子どもたちの名前。最後の行に、ペンが止まった。
樽屋の年寄りの名前を、アルノは知らなかった。一年、谷にいて、一度も訊かなかった。
「樽屋さんの、お名前は……」
「本人に訊きな。隣の部屋で寝てる」ベアタは戸口で振り返った。「樽屋でいい、って言うだろうけどね」
感覚のない二本の指で頁を押さえたまま、アルノはその行を空けておいた。
椅子が鳴った。イルゼが目を覚ましていた。帳簿を膝に載せたまま、じっとこちらを見ている。泣き腫らした目を、隠そうともしなかった。
イルゼは帳簿を閉じ、椅子の上で背筋を伸ばした。膝の上で両手を重ね、取立ての窓口に座る係の顔になった。声が、ひどく丁寧だった。
「保持者様。一つ、お伺いいたします」
「……はい」
「あの日の五本目のお代、保持者様の命でお支払いいただくところでございました。こちらは、まだ頂戴しておりません」イルゼは瞬きをしなかった。「お支払いは、いつになさいますか」
アルノは天気帳を閉じた。感覚のない指が、表紙の上で滑った。
「……命では、払いません。もう」
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