第58話 正午
記録によれば、北風の朝の正午は一刻半遅れる。
平地の西の高みで、ウルリヒ・レーゲンは懐中の時計と手帳を並べて見ていた。三十年のうち、北風の朝の最初の光がこの刻より早かったことは一度もない。七百が村を押さえるまで、あと半刻。村を押さえれば、保持者は湖の舟の上か、村の岩の上か。どちらでも、正午の前に証文と執行状を突きつけられる。
伯は顔を上げ、南の空を見た。
白い塔が立っていた。
手帳の頁のどこにも、この刻にこの高さの雲はなかった。塔は湖の向こうの山の端からではなく、平地と湖の真上から、足元の水から湯気を吸い上げて、見ている間にも伸びていく。北風が止んだ。頬に、生温い南の風が触れた。
「……水か」
伯は呟き、手帳に一行を書こうとして、ペンを止めた。書く前に、確かめることがあった。
* * *
雲の底が、下りてきた。
村の手前の岩の上で、アルノは空を見上げていた。塔の底が灰から紫へ変わり、空気が甘く、焦げたように匂い始める。左腕の雷紋が、肩から指先まで皮膚の下でちりちりと疼いた。
岩の下には、槍の者たちが穂先を寝かせて伏せている。イルゼが岩の陰に帳簿を抱えてしゃがみ、ズデンカの隊は平地の北の縁の葦の中に散っていた。
平地では、七百が膝まで水に浸かって、村の杭の列へ近づいていた。盾の裏の鎖が、水の中に垂れている。
「盾を狙うんじゃねえのか」イルゼが岩の下から言った。「鎖が逃がしちまうだろ」
「盾には落としません」アルノは平地の南の端を見ていた。水の膜が湖の浅瀬とつながる、平地の縁。「あそこです。水の、端っこ。鎖は、上から来る雷を地面に逃がします。でも、足の下を這ってくる雷は、どこにも逃がせません」
「退き口は」ボルクが、伏せたまま言った。
「峠です。水の外には、落としません。高みの人たちには、帰ってもらいます」
ボルクは、それ以上は訊かなかった。
光った。雲の中で、一度。
「いち、に、さん、し……」
音が来た。まだ遠い。雲の中で、雷が育っていく場所が、背中で分かった。拍が距離になる。距離が、落とせる場所になる。冬の湿地で、初めてそれが分かった夜と同じだった。
左手を空へ上げた。指先に、火花を一粒灯す。ぱち。
空が、答えた。
白い線が指から入り、肘を撫で、肩で折れて、体の外へ抜けていった。アルノが見ていた一点、平地の南の縁の浅瀬へ、雷が真っすぐに落ちる。浅瀬の水が白く跳ね上がり、次の瞬間、光が水の膜の上を這い出した。
青い網だった。
落ちた一点から、細い光の筋が何百本も枝分かれして、水の膜の上を放射状に走っていく。枝が枝を生み、網の目が平地の南から北へ、西から東へ、一息のうちに広がって、白い砂の平地一面を青く覆った。
網の上で、鎖の盾が一斉に傾いた。水の中に垂れた鎖が、上から来る雷のためのものだった鎖が、足元を這う光には何の役にも立たなかった。盾が倒れ、槍が倒れ、膝まで水に浸かった七百の膝が、端から端まで同時に折れた。水しぶきが、平地の上に白い霧のように立ち上がった。
音が来た。空を裂く音と、水の面を叩く音が重なって、平地の向こうの尾根にぶつかり、何度も返ってきた。
「今日のいちばん……!」
岩の上で、アルノは膝立ちになっていた。平地一面の青い網は、十年の帳面のどこにもない。まだ網の残光が消えないうちに、雲がまた光る。
「おいおい、領主さま……」槍の若い者が、伏せたまま呆れた声を出した。
二本目を呼んだ。平地の北の縁、ズデンカの隊から遠い側の水の端へ。青い網が、起き上がりかけた盾の列の上をもう一度走った。
「に!」
「おいおい……」
三本目。村の杭の列のすぐ手前、先頭が最後に踏み込んだ水溜まりへ。
「さん!」
誰も「おいおい」とは言わなかった。
平地が静かになっていた。水の膜の上に、倒れた盾と、倒れた人が、白い砂の上の黒い点のように散らばっている。起き上がろうとして、また水の中へ膝をつく者。盾にしがみついたまま動かない者。水しぶきが落ち、湯気が平地の上をゆっくりと流れていく。
槍の者たちは伏せたまま、声も出さずにそれを見ていた。イルゼが帳簿を抱えたまま、岩の陰から顔を上げていた。
左腕が、焼けていた。三本。ベアタが言った、今日の上限だった。指先が震え、胸の奥が重い。
「……終わりか」とイルゼが言った。「坊ちゃん。終わりだよな。三本だ」
「七百の人たちは、もう立てません」アルノは平地の西を見たまま言った。「でも、高みの人たちが、まだ」
高みの上の伯の本隊が、動いていた。
乾いた高みを下りず、平地の水を避けて、湖の縁の堤道を東へ回り込んでいく。水の膜の届かない、湖と平地の間の細い砂の道。その先に、村の舟着き場がある。
舟着き場には、まだ最後の舟が残っていた。ボルクの背中から下ろされた樽屋の年寄りを、ベアタと村の女たちが舟底へ寝かせようとしている。脚を動かせない年寄りを運ぶのに手間取って、舟はまだ岸を離れていなかった。ハンネが、その舟の舳先で小石の壺を抱えていた。
「坊ちゃん」
イルゼの声が、低くなった。
「三本だ。三本って、婆さんが言った。三本までだ」
「あと二本です」アルノは堤道の先頭を見ていた。「ベアタさんは、五本で止まるって言いました。だから、あと二本です」
「数えんな、そんなもん!」
「数えます!」アルノは叫んだ。声が裏返った。「舟に、樽屋さんがいるんです! ハンネさんも! 伯爵さんが舟着き場を押さえたら、みんな——」
四本目を呼んだ。
堤道の先頭の、ほんの手前。湖の水が寄せる、濡れた砂の上へ。白い線が指から入り、今度は肘で止まらなかった。肩を焼き、胸の中で何かを掴んで揺すり、それから外へ抜けた。堤道の砂が弾け、先頭の騎馬が棹立ちになり、濡れた砂の上を這った光に脚を払われて、列の先頭が崩れた。
アルノは岩の上に膝をついた。舌の奥に、焦げた苦いものが広がった。
「……苦い」
「坊ちゃん!」イルゼが岩の上へ這い上がってきた。「顔が真っ白だ! もういい、舟は間に合う、あたしが走って——」
「間に合いません。樽屋さんは、脚が動かないんです」
* * *
堤道の上で、ウルリヒ・レーゲンは馬を宥めていた。
先頭の十騎が倒れていた。雷は盾でも槍でもなく、列の手前の濡れた砂に落ちた。落ちる場所を選んでいる。水を選び、濡れた砂を選び、鎖の届かない足元を選んで。記録にない雷だった。記録にない正午だった。三十年の手帳のどの頁にも、晴れた北風の朝に、この平地が一面の水に覆われた日はない。
「伯、雷が……雷が、選んで落ちています」副官の声が震えていた。
「見れば分かる。列を立て直せ」伯は言った。声は乱れなかった。「舟着き場まで、あと少しだ。雷は、一人の人間が呼んでいる。一人の人間の体には、限りがある」
伯は、そのことも知っていた。
* * *
イルゼが、アルノの左腕を掴んでいた。
「やめろ。やめろって言ってんだよ!」
「伯爵さんは、止まりません」アルノは堤道を見ていた。倒れた先頭の後ろで、盾の列が並び直している。「止まらない人です。私が、あと一本で止めないと」
「あんたが止まるだろうが! 五本で止まるって、婆さんが言ったんだぞ! 止まるのは伯爵じゃねえ、あんたの心臓だ!」
イルゼの手を、アルノは振りほどかなかった。掴まれたまま、右手を空へ上げた。指先に、火花を灯す。ぱち。
五本目は、堤道の伯の馬の、すぐ前の濡れた砂へ落ちた。
光が砂の上を這い、列の前の十歩ぶんの地面を青く焼いた。伯の馬が後脚で立ち、伯は手綱を引いてそれを止め、焦げた砂の縁を見下ろしたまま動かなかった。やがて伯の手が上がり、盾の列が、高みのほうへ退き始めた。
音が来なかった。
アルノの耳の中で、音が来なかった。光ってから、音まで。数えなければ。母の声が、背中を叩く指が、数えなさいと言っている。
「いち、に、さん、し……」
声が、そこで止まった。
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