第57話 堰を開ける
伯の本隊が霧を抜けたのは、日がだいぶ高くなってからだった。
湖岸の堤道の終わりで、霧が切れる。その先に、村の手前の白い砂の平地が広がっていた。北は尾根の麓の採掘場、南は湖の湿地。その間に挟まれた、雨が降っても半日で乾く、谷でいちばん白い土地だ。盾の列が霧の中から一列ずつ現れ、平地の西の端の、低い砂の高みに並んでいく。
村の手前の岩の上で、アルノは平地の向こうの段々畑を見上げていた。
段々畑の上には、尾根から下りてくる沢を堰き止めた堰がある。春に作ってから、晴れの日に畑へ回す分のほかは一度も開けず、夏じゅう水を溜めてきた。水門の前に、小さな人影が一つ立っていた。樽屋の年寄りだった。
「旗を」
ハンネが、決めておいた合図の旗を大きく振った。堰の柱の下で、係の子が同じ旗を振り返す。堰の前の人影が、水門の閂に取りついた。
閂が、動かなかった。
「領主さま、開かない」ハンネが旗を握ったまま言った。「樽屋のじいちゃん、押してる」
「膨らんでるんです。夏のあいだ、ずっと水に浸かってたから……!」
遠目にも分かった。年寄りは閂に肩を当て、足を踏ん張り、体ごと押している。夏の水を吸って膨らんだ木が、枠に食い込んで離れない。年寄りは担いでいた雷木の棒を閂の下に差し込み、梃子にして体重をかけた。一度。二度。
平地の西の高みで、伯の本隊の旗が動いた。盾の列の一部が高みを下り、平地へ踏み出す。
三度目に、閂が弾けた。
水門が内側から押し開けられ、溜め込まれていた水が、段々畑を一段ずつ滝のように落ちていった。白い泥水が段の縁を越え、次の段を満たし、その次の段へ溢れて、最後の段から白い砂の平地へ扇のように広がっていく。乾いた砂が水を吸い、吸いきれなくなって、表面に水が張る。平地の東から西へ、村の手前から伯の高みへ向かって、水の膜が朝の光を撥ね返しながら広がっていった。
平地一面が、白く光った。
「開いた……!」
アルノは岩の上で拳を握り、それから段々畑を見上げて、息を止めた。
堰の前に、人影がなかった。
「樽屋さんは!? 樽屋さんが、いません!」
堰の柱で、係の子どもの旗が黒に変わった。黒は、落ちた、の合図だ。雷の話でしか使ったことのない旗だった。
アルノは岩から飛び下りかけた。襟首を掴まれて、引き戻された。ボルクだった。
「お前の持ち場はここだ」
「でも——」
「俺が行く」ボルクは槍を若い者に預け、段々畑の上の道へ走り出した。一度も振り返らなかった。
平地の西で、伯の本隊が止まっていた。
高みの上で、盾の列がゆっくりと向きを変える。水の膜を前にして、伯は兵の大半を乾いた高みの上に止め、残りを平地へ進ませた。泥の中へ踏み出したのは、鎖の盾兵と、その後ろの農兵を合わせて七百ほど。盾の裏の鎖を、今度はわざと水の中へ垂らして歩いてくる。上から来る雷を、水を通して地へ逃がすために。
「……気づいたんだ」アルノは呟いた。「平地に水を張ったのを見て、雷の逃げ道を水に作った。残りは高みで、濡れない」
「七百で村を押さえて、正午の前に峠へ戻る気だ」イルゼが言った。「残りを乾いた場所に置いとけば、何が落ちても半分は無傷で帰れる。……嫌な勘定だよ。あたしが伯爵でも、そうする」
泥の中の七百は、膝まで沈みながら、それでも止まらなかった。一歩ごとに水を撥ね、盾を揃え、村へ向かって進んでくる。村の家々には、もう誰もいない。湖の舟着き場では、最後の舟に人が乗り込んでいた。
段々畑の上の道を、ボルクが下りてきた。背中に、樽屋の年寄りを負っている。年寄りの脚が、変な方向に揺れていた。
「水門に脚を挟まれた。息はある」ボルクは舟着き場のほうへ顎を振った。「ベアタのところへ運ぶ。最後の舟だ」
年寄りがボルクの背中で顔を上げた。唇が紫色になっていた。
「……流れたか」
「流れました!」アルノは叫んだ。「平地じゅう、水です!」
年寄りはそれを聞いて目を閉じた。口の端が、かすかに動いた。
「……なら、いい。わしの樽は、どれも水が漏れん。堰もな」
ボルクが舟着き場へ走っていく。イルゼがハンネの肩を掴んだ。
「ハンネ、お前も舟だ。行け」
「やだ。領主さまの数、誰が数えるの」
「私が数えます!」アルノはハンネの前にしゃがんだ。「ハンネさんは、舟の上から数えてください。今日は、たぶん、たくさん落ちます。私が数え間違えたら、あとで教えてください」
ハンネは唇を尖らせ、小石の壺を抱え直してから、舟着き場へ走っていった。一度だけ振り返って、叫んだ。
「賭ける? 今日、何本か!」
「賭けません!」
アルノは平地を見た。膝まで水に浸かった七百が、村の手前の杭の列まで、あと半分の距離に来ていた。北風が頬を撫でる。まだ北だ。まだ。
イルゼが帳簿を胸に抱えたまま、アルノの横顔を見た。
「坊ちゃん。正午は」
「……平地に水を張ったら、雲が早く育つんです」アルノは空を見たまま答えた。「段々畑に水を入れた日は、三回とも、いつもより早かった。水が朝日で温まって、湯気になって、上がっていくから。帳面に書いてあります。まだ、三回しかないけど」
「三回かよ」
「三回です。でも、三回とも」
南の空で、白い塔が一つ、立ち上がった。
湖の向こうで生まれかけていた綿が、湖と平地の上から吸い上げた湯気を食べて、見ている間にも背を伸ばしていく。塔の底が、灰色に翳り始めていた。北風が弱まり、頬に当たる風が、ためらうように向きを変えかけている。
アルノは空を見上げたまま、左手の人差し指を、一本だけ立てた。
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