第56話 霧の湖
使者が坂を上りきる前に、盾の列はもう動き出していた。坂の下で左へ折れ、湖へ向かう。
湖の上には朝の靄が厚く溜まり、北風に押されて湖岸の湿地まで白く這い出していた。冷たい北風が、夏の日を溜め込んだ湖面を撫でると、水の上に湯気のような霧が立つ。伯の列はその霧の中へ、ためらわずに入っていった。
「湿地の中を通る気か」ボルクが唸った。
「湿地の縁に、昔の堤道があります。舟小屋へ行くための細い道です」アルノは絵図の上の点線を指でなぞった。「でも、あの辺りは冬に傭兵さんたちが崩れた場所の、すぐ隣です。霧の中じゃ、道の縁も見えないはずなのに……」
「伯の帳面には載ってるんだろ」イルゼが言った。
霧の中で、鎖の音だけが続いていた。姿は見えない。音は湖の縁を東へ、村の手前の白い平地へ向かって、ゆっくり動いていく。
アルノは村の手前、雷よけの杭の脇の岩に絵図を広げた。霧の上に突き出した岩の上に、雷見の旗の子どもたちが立っている。赤い旗が一振り、二振り。岩から岩へ、旗が次々に振られて、霧の上を知らせが渡ってくる。
「湖の北の岩、先頭が見えた、です!」
「堤道の二つ目の曲がり!」
「盾、四つずつ並んでる! 鎖、垂らしてる!」
子どもたちの声は、旗より遅れて、切れ切れに霧の上を渡ってきた。ハンネがアルノの横で小石の壺を抱え、旗が振られるたびに小石を一つずつ握り替えていた。
アルノは印をつけていった。炭の点が一つ、また一つ、湖岸の点線の上を東へ進む。進み方が、速い。霧の中の見えない堤道を、盾の列は一度も迷わずに歩いている。
「このままだと、平地に出るのは……」アルノは空を見上げた。雲は、まだない。「正午より、ずっと前です」
「黒羽が出る」とボルクが言った。その言葉が終わらないうちに、霧の中で鎖の音が乱れた。
湿地の葦の中から、黒い羽根をつけた者たちが飛び出し、列の横腹に矢を射かけて、すぐにまた葦の中へ消える。盾の列が止まり、向きを変え、盾を葦の側へ並べ直した頃には、もう誰もいない。少し先で、同じことがもう一度起きる。追おうとした農兵の数人が葦の中へ踏み込み、泥に腰まで沈んで、仲間に引き上げられた。
霧の中から、伯の声が聞こえた気がした。追うな、列を崩すな。それきり、盾の列は一度も葦の中へ踏み込まなかった。止まり、盾を並べ、また歩き出す。羽根が出るたびに、列は止まる。止まるたびに、時間が過ぎる。
「追ってこねえな」イルゼが呟いた。「山賊を追えば、湿地に沈む。それも知ってやがる」
「堤道の三つ目! 馬の人が止まって、何か書いてる!」岩の上の子の声が、霧を越えて届いた。
「書いてる……!? こんなときに!? 伯爵さん、ほんとに何でも帳面に書くんですね!」
「感心すんな。あんたも書いてるだろうが」イルゼが炭の点だらけの絵図を顎で指した。
「感心してません! ……してますけど、悔しいほうです!」アルノは炭の点を指で押さえた。「それに、止まってます。止まった分だけ、正午が近くなります」
霧の端が揺れた。葦をかき分けて、ズデンカが現れた。肩に、人を一人担いでいる。
見張りの岩の若い者だった。脚に布を巻かれ、その布が赤く濡れていた。顔は泥だらけで、それでも目は開いていた。ボルクが駆け寄って若い者を受け取り、地面に下ろした。
「尾根の踏み跡を下りてくる途中で、伯の斥候に見つかったらしい。湿地に落ちて、葦の中で朝まで隠れてた」ズデンカは肩を回した。「火を上げたまま、振り返らずに下りたそうだ。言われたとおりにな」
ボルクは若い者の顔を見下ろしたまま、長いあいだ何も言わなかった。それから、泥だらけの頭に一度だけ手を置いた。
「……見つからん道を、教えたはずだ」
「見つかりました」若い者は泣き笑いの顔をした。「すいません」
ベアタが若い者の脚を見て、舟へ運べと言った。二人の村人が若い者を担いで湖の舟着き場へ走っていく。ボルクはその背中を見送ってから、右の耳を霧の方へ向け直した。
アルノも、運ばれていく若い者の泥だらけの足を見ていた。去年は、逃げていった二十人の足を見ていなかった。今年は旗の子どもたちが谷じゅうの足を見ている。それでも、尾根の踏み跡を一人で下りてくる足は、誰の目にも入らなかった。アルノは絵図の余白に、若い者の名前を小さく書きつけた。
イルゼがズデンカの前に立った。「一回出るごとに、いくらだ」
「後で請求する」
「値切るぞ」
「知ってる。去年、坂の上で見た」ズデンカは髪の羽根を直した。羽根の先が、霧で湿って垂れていた。「あんたの値切りに、今年の伯は乗らなかったんだろ。あたしのには乗ってる。止まってるからな。それと、怪我人を担いで戻った分も、請求に入れる」
「それは、谷が払う」イルゼは即座に言った。「値切らねえ。帳簿に、そう書いとく」
ズデンカは一瞬だけ目を細め、それから鼻で笑った。
「そっちの手下は」とイルゼ。
「三人が矢傷。一人が泥に沈みかけた。死んだ奴はいない。まだな」
アルノは空を見上げた。北の空はまだ高く青い。けれど南の、湖の向こうの山の端に、白い綿が一つ、生まれかけていた。まだ小さい。まだ遠い。
ズデンカもアルノの視線を追って、南の空を見た。この谷の空を、一夏かけて調べた女の目だった。
「今日の正午は遅いんだろ?」
アルノは唇を噛んで、頷いた。「……遅いです」
「なら、一刻ぶん、あたしが買う」
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