第55話 朝の坂
北風は、夜が明けても止まなかった。
峠の番小屋の戸口で、ウルリヒ・レーゲンは手帳を開いていた。小屋の中の壁一面に刻まれた名前を、松明の明かりで端から端まで読み終えたところだった。
「焼きますか」と副官が訊いた。
「触るな。十年前の国境守備隊の名だ。同じ日付が並んでいる。私の記録にも、その日の午後の雷は書いてある」伯は松明を副官に返した。「ここにいた男は、自分の部下を雷で失い、十年ここで峠を見ていた。そういう男が、夜のうちに一人の死人も出さずに退いた。……この小屋の主が谷にいるなら、谷の退き口はもう決まっている。覚えておけ」
伯は戸口に立ち、夜明けの空の色と、頬に当たる風の向きを手帳の頁に照らし合わせた。
三十年のうち二十六年、秋の最初の北風は、晩夏の新月から数えて同じ十日のうちに吹いた。伯はその十日の真ん中に期限を置いた。今年の風は、ちょうど真ん中の前の晩に来た。
「記録どおりだ」
伯は手帳を閉じ、坂の下の谷を見下ろした。雲はどこにもない。湖の上には白い靄が厚く溜まり、尾根の下の雷見の旗は、北風に煽られて南へはためいていた。
「岩棚へ人をやれ。大岩は、こちらから先に落とす。二つ目の曲がり角の柵は、油をかけて焼け。盾は前へ。鎖は外すな」
「伯、雲は一つもありませんが」と副官が言った。
「去年の夏、この坂で山賊が負けた。負けた理由を、私は三つ数えた。帳場机、大岩、鎖」伯は手袋をはめた。「三つとも、先に片付けておく。雷が来る前に」
* * *
谷へ下りる坂の下で、アルノは地面に伏せて、坂の上を見上げていた。
二つ目の曲がり角から、黒い煙が上がっていた。雷木の柵が燃えている。雷木は雷には強いが、油をかけた火には、ただの乾いた木と同じだった。煙が北風に流されて谷のほうへ下りてくる。
続いて、坂の上の岩棚で地響きがした。去年、黒羽団の退路を塞いだ大岩が、誰もいない坂道を転がり落ち、三度折れる道の一つ目の曲がりで砕けて止まった。
「……先に落とされた」
「柵もな」隣に伏せたイルゼが、帳簿を胸に抱えて舌打ちした。「去年のこと、全部調べてやがる。研究熱心な客は嫌いだよ」
坂の上に、盾の列が現れた。人の背丈ほどの長い盾が隙間なく並び、盾の裏から垂れた鎖が、乾いた坂道を擦って下りてくる。その後ろに、槍と鎌と棍棒を持った農兵の列が、どこまでも続いていた。鎖の音が坂の岩壁に跳ね返り、足の下から響いてくる。
アルノは指を折って列の長さを見積もろうとして、途中でやめた。頬に当たる風は、まだ北から吹いていた。
「イルゼさん。三十日って、この朝のことだったんです」
「あ?」
「伯爵さんは、北風が来る日を数えてから、期限を決めたんです。一月後って言ったときには、もう、今日の風が見えてたんだ」声が上ずった。アルノは地面の砂を握りしめた。「……ずるいです! すごく、ずるい! それに、すごい……!」
「褒めんな!」イルゼが帳簿でアルノの頭を押さえつけた。「おいおい、敵の帳面に見惚れてる場合かよ」
「見惚れてません! 悔しいんです!」
「どっちでもいいから頭を下げてろ!」
坂の下に、槍の者たちが伏せていた。ボルクが明け方に峠から下りてきて、黙って列の端に加わっていた。見張りの岩の若い者は、まだ戻っていなかった。
「ボルクさん、あの人は……」
「尾根の踏み跡だ。昼までには下りてくる」ボルクは右の耳を坂の上へ向けたまま言った。「来なければ、それは俺の勘定だ。お前の勘定は空だけにしろ」
アルノは唇を噛んで、それ以上は訊かなかった。
「正午まで、どれだけある」とボルクが訊いた。
アルノは空を見た。雲がない。北風の朝の空は、どこまでも高く、乾いて青い。
「北風の朝は、一刻遅れます。……まだ、半日近く」
イルゼが立ち上がった。
「机を出す」
「えっ、でも、柵も岩も——」
「去年と同じ手が通じねえのは分かってる。分かってて出すんだよ」
「危ないです! イルゼさんは財務官なんですよ!? 槍の人じゃないんです!」
「財務官だから出るんだろ」イルゼはアルノを見下ろし、帳簿の埃を払った。「値切りに乗らねえ客も、乗らねえって返事をするのに口を使う。使者が坂を上り下りする間、千五百は止まる。あたしの仕事は、正午まで客を待たせることだ」
槍の者が二人、折り畳みの帳場机と椅子を担いで、坂の下の曲がり角へ走った。イルゼは机に帳簿を広げ、インク壺の蓋を開け、ペンを耳に掛けて座った。坂の上から下りてくる千五百の兵の正面に、机が一つ。
坂の下から見上げると、机はひどく小さかった。去年の夏、同じようにイルゼが机を出した朝、アルノは黒羽団の十人に囲まれた机を尾根の上から見ていた。あのときは、雲が一刻早く来ると知っていた。今日は、一刻遅く来ることしか知らない。
アルノは左手を握っては開き、握っては開いた。雷紋が、晴れた空の下で静かに眠っていた。
盾の列が止まった。
列の中から、白い布を槍の先に結んだ騎馬が一騎、坂を下りてきた。若い使者だった。机の前で馬を止め、鞍の上から一枚の紙を読み上げた。よく通る声だった。
「レーゲン伯より、ザーラ谷の財務官殿へ」使者は紙から顔を上げた。「記録によれば、あなたの財務官は朝に値切る。本日は、値切りに応じません」
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