↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雷鳴の辺境伯〜借金まみれの『雷の谷』に追放された雷オタクの三男、落雷を資源に変えて最強の辺境を築く〜  作者: 雅龍(がりゅう)
第6章 谷の朝

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
54/96

第54話 番小屋の壁

 期限の前の晩、峠の風が変わった。


 ボルクは番小屋の戸口に立ち、右の耳を西へ向けていた。左の耳は十年前から遠い。昼のあいだ南から吹き上げていた生温い風が、日が落ちてしばらくすると止んだ。夜半になって、北の尾根の方角から乾いた冷たい風が頬を撫で始めた。秋の最初の風の匂いだった。


「北だな」番小屋の脇の野営地で、ズデンカが焚き火から顔を上げた。


「北だ」とボルクは言った。「朝までに来る」


「期限は明日の朝だろ。夜は来ないんじゃなかったのか」


「伯は、期限の朝に、この小屋にいたいはずだ。朝に着くなら、夜のうちに登る」


 見張りの岩には、槍の若い者が立っていた。雷見の旗の中継の、峠のいちばん端の番だ。夜は旗の代わりに火を上げる。岩の上の薪の束に油を染みこませて、合図ひとつで燃やせるようにしてある。ボルクは岩の下まで歩いていき、上を見上げた。


「踏み跡は覚えたか」


「覚えました」若い者の声が、闇の上から降ってきた。春に峠の西から逃げてきた、穀倉の村の小作の息子だった。「火を上げたら岩の裏へ下りて、尾根づたいに谷へ。振り返らない」


「火は燃やしっぱなしでいい。消しに戻るな」


「はい。……ボルクさん」


「なんだ」


「俺、伯爵さまの村から逃げてきたんです。麦の買い上げ値が下がって。伯爵さまの兵に見つかったら、どうなりますかね」


 ボルクはしばらく黙っていた。風が、岩の上の薪の束をかすかに鳴らした。


「見つからん道を、お前に教えた」


「……はい」


 ボルクは小屋の中に戻り、炉に薪を足した。


 壁一面に、名前が並んでいた。十年前、国境守備隊の百人長だった頃の部下たちの名だ。鉄の槍を担いで尾根に登り、同じ日の午後に帰ってこなかった者たち。一人ずつ、小刀で板に刻み、その下に同じ日付を刻んだ。十年、毎晩、炉の火がこの名前を照らしてきた。


 夜明けの二刻前、鎖の音がした。砂利を擦る、長く、低い音。一本や二本の数ではない。峠の西の坂の下から、何十本もの鎖が地面を引きずる音が重なって、闇の中を上がってくる。


「来たぞ!」ズデンカの声が、野営地を叩き起こした。


「火を上げろ」ボルクは岩の上へ怒鳴った。


 若い者が火口を薪に押し当てた。油が燃え上がり、岩の上に赤い火が立った。一呼吸おいて、谷の方角の尾根の肩に、小さな赤い点が灯る。その先に、また一つ。


     * * *


 谷底の領主館の窓から、アルノはその火を数えていた。峠の岩。尾根の肩。採掘場の上の岩。湖の北の見張り台。四つ目の火が灯ったとき、アルノは戸口へ走り出て、村の鐘の綱を引いた。


「来ました! 舟の準備を!」


 イルゼが寝間着の上に外套を引っかけて飛び出してきた。空はまだ暗く、頬に当たる風は冷たく乾いていた。北から吹いている。


     * * *


 鎖の盾兵は、松明を持っていなかった。月のない峠道を、盾の縁を並べて上がってくる。盾の裏から垂らした鎖が、乾いた砂利の上で擦れて鳴っていた。夜の峠に雷は落ちない。それでも伯の兵は、鎖を一本も外していなかった。決めたことを、要らない場面でも崩さない兵。国境にいた頃、ボルクがいちばん相手にしたくなかった兵だった。


 先頭が番小屋の柵に取りつき、斧が振り下ろされる。


「退くぞ」ボルクは言った。「決めたとおりだ。黒羽は北の沢、槍は坂の東の道」


「戦わないのか。この小屋は、あんたの十年だろ」とズデンカ。


「小屋を守って峠で死ねば、谷の昼まで人が足りなくなる。伯はそれを待ってる」ボルクは槍を若い者たちに振って、東の道を示した。「峠は明日、取り返す。取り返せなくても、谷の昼が来れば伯のほうから返しに来る」


「あんたは」


「後から行く」


 ズデンカは一瞬だけボルクの顔を見て、壁の名前に目をやった。「その壁、置いていくのか」


「板は担げん」


 ズデンカはそれ以上は訊かず、手下を連れて闇の北へ消えた。槍の者たちが、東の道を一列になって駆け下りていく。ボルクは数えた。一人、二人。……九人。


 十人目——見張りの岩の若い者がいなかった。岩の上で、火だけが燃えていた。岩の下に、盾の列の先頭がもう回り込んでいる。今から岩へ登れば、ボルクも、岩の上の者も、盾に囲まれる。


 岩の退き口は、岩の裏から尾根へ抜ける細い踏み跡だ。火を上げたら、そこから尾根づたいに谷へ下りる。そう決めて、自分でその若い者に教えた。今ごろは、あの踏み跡の途中にいるはずだった。いるはずだ、とボルクはもう一度自分に言った。


 柵が破られる音がした。ボルクは小屋の中にいた。炉の火が、壁の名前を下から照らしていた。窓の外を、盾の影が横切っていく。一つ、また一つ。影が板壁の上を流れるたびに、刻んだ名前の上を黒いものが撫でていった。


 十年前、ボルクは待った。帰ってこない部下を、尾根の下で、雷の中で待った。待っているあいだに、残りの者まで焼かれた。


 ボルクは右手を壁に当てた。いちばん上の、最初に刻んだ名前の上だった。板は炉の熱で温かかった。


 戸が蹴破られる前に、ボルクは壁から手を離し、裏口から出て、振り返らずに坂の東の道を下りていった。


読んでいただきありがとうございます!

「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。