第53話 北風の朝
一月の猶予のうち、最初の五日をイルゼは帳簿に使った。
硝子の在庫、壺の注文、峠の案内料、雷木の車軸。売れる物を全部並べ、売れる先を全部並べ、ミルデまでの往復の日数を引く。六日目の朝、イルゼは帳簿を閉じ、領主館の卓に集まった顔を見回した。
「無理だ。有り金と在庫を全部売っても、期限までに残りの三分の一にも届かねえ。しかも伯爵の麦の値で、手元は毎日削れていく。なのに、峠を下りてくる家族は減らねえ。伯の倉に麦を量られるより、雷の下で自分の麦を作るほうがましなんだと」
「じゃあ、戦うんですね」
「そうなる」
ズデンカは卓に着かず、戸口の柱にもたれて腕を組んでいた。髪に挿した黒い羽根が、戸口の風で揺れている。
「峠の西に、伯の兵が集まってる。徴募の農兵が千あまり。その前に、鎖を担いだ盾が並ぶ。うちの者に数えさせた。全部で千五百」
「こっちは」とボルクが言った。
「槍が九十ほど。春から来た家の男に、ボルクが毎朝振らせてた分だ。それに、そっちの三十」イルゼは帳簿を見ないで答えた。
誰もすぐには口を開かなかった。卓の上で、ヴォルタがイルゼの帳簿の上に座り直し、尻尾で頁の端を叩いた。
昨夜、アルノは明け方まで帳面をめくっていた。屋根裏から届いた古い束と、谷で一年つけた新しい帳面。いちばん古い一冊の最初の頁にある大人の字の「いち、に、さん」を指でなぞってから、北という字を探して頁を繰った。
北風の日は多くない。夏のあいだはほとんど吹かず、夏の終わりから秋の初めにかけて、思い出したように何日か続けて吹く。そのたびに、最初の光の刻が遅れていた。王都の近くの屋根裏でも、この谷でも、同じだった。
「……伯爵さんは、朝に来ます」アルノは膝の上の束から、一冊を抜き出した。「それも、ただの朝じゃありません」
アルノは頁を開いて卓に置いた。細かい字で、日付と風向きと、最初の光の刻が並んでいる。
「去年の夏、黒羽団の人たちと戦った日、風が南へ回った朝は正午が一刻早いって分かりましたよね。じゃあ、逆はどうなんだろうって。北から吹いた朝を、全部拾いました。そうしたら、北風の朝は、雲が湖のほうへ押し戻されて、育つのが遅いんです。正午が一刻、ときどきそれより遅れる! 帳面に、一度も外れがなくて……!」
言っているうちに声が弾んできた。アルノは頁を叩き、身を乗り出した。
「すごくないですか!? 南の裏返しが、ちゃんと北なんです!」
「楽しそうだな」ボルクが言った。
「……ごめんなさい」アルノは頁から手を離し、座り直した。「いちばん嫌な朝の話でした。伯爵さんの帳面にも、きっと同じことが書いてあります。三十年分あるんだから、私のより確かに。だから伯爵さんは、北風の朝を選んで来ます。谷の雷が、いちばん遅い朝です」
アルノは天気帳の新しい頁に、一行書いた。北風の朝は、正午が遅れる。
「千五百を、遅い正午まで止めとくってことか」ズデンカが言った。「峠の坂でか」
「坂の仕掛けは、去年もう見られてます。伯爵さんは、去年のことを全部調べてるはずです」アルノは谷の絵図を広げた。「尾根の麓は硝子の採掘場で、午後は危ないって伯爵さんは知ってます。湖の南は湿地で、冬に傭兵さんたちが崩れた場所です。どっちも避けたら、通る道は一つです」
指が、村の手前に広がる白い砂の平地の上で止まった。
「ここは、乾いてます。一年中。だから伯爵さんは、ここを選びます」
「乾いてる場所で、あんたの雷は数を倒せねえよな」とイルゼ。
「今は乾いてます」アルノは指を、平地の上の段々畑へ滑らせた。「春に作った堰に、夏じゅう水を溜めてあります。堰を開ければ、段々畑を伝って、平地が一面、水浸しになります」
ボルクが絵図を覗き込み、しばらく黙ってから言った。
「退き口は」
「村の人たちは、湖の舟で東の岸へ渡ってもらいます。舟小屋の舟を全部使って、二往復です。子どもと、お年寄りから」
「伯の兵の退き口は」
「……峠です。坂を上って、西へ。それ以外は作りません」
ボルクは顎を引いた。それでいい、という顔だった。
「堰の番は、わしがやる」
戸口の脇で、樽屋の年寄りが言った。皆が振り向いた。年寄りは腕を組み、白い眉の下からアルノを見ていた。
「あの堰の閂は、わしが削った。木が膨らむと、力の入れ方を知らん者には抜けん」
「でも、平地のすぐ上です! 伯爵さんの兵が来たら——」
「来る前に抜いて、逃げる。年寄りの足でも、段々畑の上の道なら間に合う」年寄りは鼻を鳴らした。「その鐘で何人死んだと思ってる、と言ったのはわしだ。谷の昼で、谷の者を守るところを、わしは一度くらい見ておきたい」
アルノは唇を噛んだ。それから、深く頭を下げた。
「……お願いします」
皆が出ていったあと、アルノは卓に残り、白い砂の平地に指を置いたまま動かなかった。そのすぐ上に、去年の夏、黒羽団の十人がイルゼの帳場机を囲んだ坂の曲がり角がある。あの朝は一刻早い正午に救われた。今度は一刻遅い正午まで、自分たちで持ちこたえなければならない。
北風の朝は、夏の終わりから秋の初めに何度も来る。その中のどの朝かまでは、どの帳面にも書いていなかった。
最後に出ていこうとしたボルクの背中へ、アルノは訊いた。
「伯は、どの朝を選ぶと思いますか」
ボルクは戸口で足を止め、振り返らずに答えた。
「お前がいちばん嫌な朝だ」
読んでいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。




