第52話 取立屋の辞め方
召還状は翌日の昼の荷で届いた。秤と麦束の封蝋を、イルゼは爪で弾いて割った。領主館の卓で読み、読み終えると裏返して伏せ、何も言わずに帳簿を開く。ペン先が、いつもより強く紙を引っかいた。
向かいでは、アルノが天気帳をつけるふりをしていた。三行書いて、三行とも同じことを書いているのに気づき、ペンを置いた。
「アンゼルムさんから、ですよね」
「爺さんからだよ。読むか」
イルゼは紙を指で弾いてよこした。この前の封書と同じ、事務の整った字だった。
取り立て先は、もはや当商会の債務者ではない。係は直ちにミルデへ戻られたい。戻るなら、此度の回収の一割を約束どおり支払う。戻らぬなら、本日をもって雇いを解き、一割の件は無かったものとする。最後の一行だけ、別の手だった。相場というものはね、イルゼ、変わる前に降りた者が勝つのですよ。
一割。五日前に二人で数えた金貨の塔の、一割。イルゼがこの谷に居座った一年が、そっくりその数になって紙の上にあった。
アルノは紙を卓に戻した。指先が冷たかった。「……イルゼさんが、決めることです」
「分かってるよ」イルゼはペンを置き、腕を組んだ。「で、坊ちゃんは。引き止めねえのかよ」
「引き止めません」
「へえ」
「引き止めたら、イルゼさんは残ってくれます。そういう人だから」アルノは卓の木目を見たまま言った。「だから、言いません。イルゼさんの金庫の話は、イルゼさんのものです」
イルゼは何か言い返そうとして、ペンを取り直し、また置いた。
「商会に戻ったら、金貨が四十枚ですよね。それだけあったら、金庫の、最初の……」言いながら、喉の奥が熱くなってきた。アルノは天気帳を持ち上げて顔の前に立て、頁をめくった。「最初の棚くらいは、買えますよね。いいと思います! すごく、いいと思います」
「帳面、逆さまだぞ」イルゼは顔も上げなかった。「ついでに、さっきから同じ頁だ」
「……知ってます」
戸口から、ハンネが顔を出した。朝から姿が見えないと思ったら、ずっと戸の外で聞いていたらしい。小石の壺を抱えている。卓の上の割れた封蝋と、逆さまの天気帳と、イルゼの顔を順に見て、壺をからりと振った。
「賭ける?」
「賭けません! ハンネさんまで、何ですか!」
「ハンネは、残るほうに三つ」
「賭けないって言ってます!」
ハンネは肩をすくめ、壺から小石を三つ出して握ったまま、戸口の外にしゃがみ込んだ。帰る気はなさそうだった。
イルゼは長いあいだ帳簿を見ていた。谷に入る金と、出る金。左の欄の一番下に五日前に書いた四という数字と、その下の、まだ何も書いていない行。
「坊ちゃん。一つ訊く」イルゼは帳簿から目を上げずに言った。「真面目に答えろよ」
「はい!」アルノは天気帳を閉じて、膝の上に置いた。
「あの伯爵、三十日で残りを一括って言ったな。払えると思うか」
「思いません。一月じゃ、尾根の硝子を掘りきる日数にも足りません」
「あたしもだ。一年かけて、ようやく半分近く。残りを一月で作れる帳簿なんか、この国のどこにもねえ」イルゼはペンの尻で卓を叩いた。「つまりこの谷は、一月後に伯爵とやり合う。金じゃ済まねえ。槍と雷でだ。そうだろ」
「……はい」
「何千だかの兵が峠を下りてくる谷で、麦の値が倍で、手元が四枚。槍を何本揃えて、何日食わせて、負けたら何を売って何人逃がすか。そういう帳簿を、誰がつけんだよ」
アルノは顔を上げた。イルゼがまっすぐこちらを見ていた。
イルゼは召還状を裏返し、白い面を上にしてペンにインクを含ませた。角ばった帳簿つけの字で、一行目にザーラ谷財務官と書く。二行目に月の給金の額。三行目に、谷の金の出入りはすべて財務官が数える、と。四行目に、財務官の署名のない支払いは無効、と書いて、下に線を引いた。
戸口の外で、小石が壺の底に落ちる音が三つ続いた。イルゼは紙をアルノの鼻先に突きつけた。
「で、いくら出す」
アルノは紙を受け取り、二行目の数字を見て、目を丸くした。「高いです!」
「財務官の相場だよ。王都の伯爵家なら、この倍は取る」
「今の谷の手元より、多いです!」
「知ってる。あたしが数えたんだから」
紙の上の角ばった字を、アルノは指でなぞった。ザーラ谷財務官。自分の谷の名前が、イルゼの字で書いてある。着いたばかりの夏、寝台の上で、天気帳の頁に初めて他人の字が並んだ日があった。あの日の字も、こんなふうに角ばっていた。
「イルゼさん、アンゼルムさんへの返事は、どうしますか」
「紙を替えて一行だけ書く。辞めます、ってな」イルゼは鼻を鳴らした。「一割のことは、利息つけて覚えときますって書き足して」
アルノは笑おうとして、うまくいかなかった。鼻の奥がつんとして、目の縁が熱くなる。袖で目をこすると、イルゼが帳簿で卓を叩いた。
「泣くな。財務官の最初の仕事が、領主の鼻水の勘定なんて御免だよ」
「泣いてません! ……これは、嬉しいほうのです」
「どっちでも帳簿には載らねえ」
アルノは鼻をすすり、紙を両手で持ち直して、背筋を伸ばした。
「払います!」声が大きすぎて、戸口のハンネが振り返った。「……いつか」
「いつか、は利息つけとく」
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