第51話 買われた債権
谷の朝は、今日も晴れていた。
期限の金を払って四日目の朝。アルノは壺置き場の棚の前にしゃがみ、素焼き壺を一つずつ覗いては、塩水の中の青い光の濃さを帳面に書きつけていた。昨日詰めた壺は明るく、三日前の壺はちょうど半分ほどに翳っている。棚の端では白い獣が空の壺を前脚で抱え、腹を上にして眠っていた。毛並みの先で、小さな火花がときどき音もなく弾ける。
「ヴォルタさん、それ、昨日の最後の一つですよね。ずるいです」
獣は片目だけ開けて、また閉じた。
峠のほうから、鎖が砂利を擦る音が下りてきた。馬車だった。車軸から垂らした細い鎖を引きずって、三度折れる坂を、急がず、一度も止まらずに下りてくる。扉には麦の穂の上に雨粒が三つ。レーゲン伯家の紋だ。後ろに騎馬が十ほど続いていた。
「……朝ですね」
アルノが呟くと、帳簿を抱えて領主館から出てきたイルゼが、坂を見上げて眉間に皺を寄せた。
「朝に来る客は、ろくな用じゃねえよ」
レーゲン伯ウルリヒは馬車を降りるとまず空を見た。雲のない東の空、湖の上に薄く残る靄、尾根の下の雷見の旗を順に確かめ、手帳に何か書きつけてから、ようやくアルノに向き直った。
「おはようございます、保持者殿。期限の返済、お見事でした。ミルデでは噂で持ちきりです。雷の谷の保持者が、金貨を一枚ずつ声に出して数えた、と」
「数えました! 最後の一枚まで、イルゼさんと——」
「存じています。それから、これを拝見したかった」
伯は棚の前に立ち、壺の一つに顔を寄せた。手袋を外し、壺の肌に指の背を当てる。痺れが走ったはずなのに、眉ひとつ動かさなかった。
「三日で半分、と聞きました」
「はい! 硝子の芯を立てて、やっとそこまでです。前は一日で半分でした」
「ハルデンまで荷車で三日。着いたときに半分残るなら、坑道の灯りには足りる。……よくお作りになった。これはいずれ、王国の物の値を変えます」
「ほんとですか!」
アルノの顔がぱっと明るくなった。三十年分の天気帳の話を聞いた晩秋の日と、同じ顔だった。イルゼが脇腹を帳簿の角で突いた。
「褒めてから条件を出す客だって、忘れてんじゃねえぞ」
伯は胸の内から二つ折りの紙を二枚出し、作業台に並べた。一枚目は証文だった。ラッセル商会がザーラ谷の保持者に持つ債権の残りを、そっくりレーゲン伯家が買い取ったという。末尾にアンゼルムの署名と、秤と麦束の印。二枚目の下には、封蝋が三つ並んでいた。
「五公家評議会の執行状です」伯は手帳を読み上げるのと同じ調子で言った。「王領の保持者は、峠の守りを負う。この夏、谷の荷を運ぶ商隊が、峠の西、私の領内で襲われ、護衛が重い傷を負いました。保持者殿は自分の荷を守れなかった。また保持者殿は、私が冬に狩り残した山賊を、峠の番小屋の脇に住まわせている。以上をもって評議会は、保持者が峠の守りを果たしていないと認めました」
「黒羽団の人たちは、峠の見張りをしてくれてるんです! 春から、峠で荷が盗られたことは一度も——」
「記録によれば、その山賊の頭は、去年の秋にこの谷の倉を焼いた一味の頭です」
「それは……」
アルノは言葉に詰まった。イルゼが前へ出た。
「で、執行状の中身は」
「三十日のうちに、残債を一括で私にお支払いください。できなければ、峠と黒鉄尾根の採掘場を担保として差し押さえます。以後、峠の守りは私の兵が務めます」
「待ってください!」アルノは執行状の封蝋を指さした。「商隊が襲われたのは、伯爵さんの領内なんですよね!? だったら、そこを守るのは伯爵さんの兵じゃないんですか!」
「ええ。ですから、峠も私の兵が守ると申し上げています」伯の顔つきは変わらなかった。「峠の東と西で守る者が違うから、荷の通り道に隙間ができる。評議会は、その隙間を埋めるのは保持者殿より私のほうが上手だと認めた。それだけのことです」
イルゼが舌打ちをした。言い返す言葉を帳簿の中に探して、見つからない顔だった。
「一括って……残り、ぜんぶですか!?」
「ぜんぶです。貸し手は、今は私です。私は分割を好みません」
帳簿を持つイルゼの指が白くなっていた。四日前、二人で積み上げた金貨の塔が商会の窓口の奥へ消えたとき、帳簿の手元の欄には四枚だけが残った。その四枚で秋と冬を越す算段を、イルゼは昨夜遅くまでつけていた。
「それから、これはお知らせです」伯は手袋をはめ直した。「本日より、私の領内の麦は、峠を越えて谷へ運ぶ分に限り、値を倍にいたします。麦の値は麦の持ち主が決めてよい。組合長も、そうおっしゃっていました」
「ひどいです!」
声が裏返った。アルノは作業台に両手をついていた。
「谷には、春から来た人がたくさんいるんです! 子どもも! 麦が来なかったら——」
「ええ。ですから三十日です。飢えるには足りず、金を作るにも足りない日数。三十年つけていると、こういう数え方が身につきます」伯はほんのわずかに首を傾けた。「保持者殿の壺は見事です。あれを作った方と争うのは、私にとっても損です。峠と尾根を預けていただければ、麦の値はすぐに戻しましょう。壺は谷でお作りなさい。私が買います」
いつの間にか起きたヴォルタが、棚の上から伯を見下ろしていた。毛並みがちりちりと鳴り、青い火花が一つ弾ける。伯はそれを見上げ、手帳に何か書き足した。
「見事な獣です。……では」
馬車に乗り込む前に、伯は一度だけ振り返った。雲のない朝の空を背にした、穏やかな声だった。
「三十日後の朝に、伺います」
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