第50話 期限の日
競りの朝、ミルデの細工通りの広場には、人が溢れていた。広場の真ん中に、エーミルの工房から運び出した長卓が置かれ、その上に、布をかけた大樹が立っていた。布の下の形は、人の背丈ほどもある。
細工師たち、宝飾商、教会の寄進係、王都から来たという商人たち。組合の者も、腕を組んで広場の端に立っていた。買う気はない。見張りに来ているのだった。
「始めるぞ」
イルゼが布を引いた。朝の光が、硝子の幹へ入った。根元から太い幹が立ち上がり、途中で三つに、五つに、数えきれない枝に分かれ、枝先が糸のように細くなって空を指している。幹の中に、雷が通った道の筋が白く残っていた。広場の人々の口から、ため息が一斉に漏れた。
「今日のいちば——」
「言うな。売り物に名前をつけんな」
「でも、去年の秋のいちばんです!」
「知ってるよ。あたしが担いで運んだんだ」
競りが始まった。細工師たちが声を上げ、宝飾商がそれに重ね、値は金貨五十、八十、百と上がっていった。百二十を越えたところで、広場の端から落ち着いた声がした。
「百五十」レーゲン伯の家令だった。灰色の髪を後ろへ撫でつけた男で、伯と同じ形の手帳を手にしている。広場の声が、ぴたりと止んだ。細工師たちが顔を見合わせる。伯の家令が競っている品に、声を重ねる者はいなかった。
「……百五十じゃ、足りねえ」イルゼが奥歯で言った。
宝飾商の一人が、震える声で百六十と言った。家令は手帳から目も上げずに、百八十と返した。
値は家令と宝飾商の間で刻まれ、二百を越え、宝飾商が首を振って下がった。家令は手帳を閉じた。
「二百二十。ほかには」
イルゼの指が、帳簿の上で固まっていた。ペン先から落ちたインクが、赤い字の上に黒い染みを広げていく。
「イルゼさん、二百二十って」
「足りねえ。三十と六、足りねえ」イルゼは家令の手帳から目を離さなかった。「あの野郎、知ってて止めてやがる。伯の帳面には、うちの期限の日も、足りない額も書いてあるんだ。競りに勝ちに来たんじゃねえ。うちの手元を、きっちり足りない額で止めに来たんだよ」
「なんで、そんなこと……」
「足りなきゃ、谷は差し押さえだ。差し押さえた谷の債権を、誰が買うと思う」
アルノは広場の端の、鎖を垂らした馬車を見た。扉は閉じたままだった。
「二百四十」
広場の後ろから、声がした。灰色の外套の人物が、群衆の中で指を立てていた。顔は帽子の陰になって見えない。家令が初めて手帳から顔を上げ、その人物を見た。
「二百五十」家令が返した。
「二百六十」灰色の外套が、間を置かずに言った。
家令は灰色の外套を見据え、指で手帳の角を二度叩いた。それから一行何か書きつけ、静かに首を振った。
「二百六十。ほかには。……ありませんね」エーミルが槌を打った。「落札」
灰色の外套の人物は長卓へ来て、革袋を一つ置いた。中の金貨は、どれも縁の刻みが鋭く、光っていた。鋳造所から出てきたばかりの色だった。名前は名乗らなかった。受け取りの書付に署名する代わりに、赤い蝋に指を押した。
「……ちょうど足りる額だ」イルゼが、書付の蝋を見下ろして呟いた。指で押された蝋の跡を、爪の先でなぞっている。
「え?」
「なんでもねえ。走るぞ、坊ちゃん。日没までだ」
* * *
ラッセル商会の窓口の卓に、夕日が斜めに差していた。アンゼルム・ラッセルは、卓の向こうの椅子に深く腰掛け、いつもの笑みを浮かべていた。イルゼは革袋を二つ卓に置き、紐を解いた。金貨を十枚ずつ積んで、塔を作っていく。
「元本の三分の一と、一年分の利息。耳を揃えて」
「おや、耳を揃えるのは結構だがね。数えてもらえますかな。相場というものはね、数えるまでは相場でしかない」
「数えます!」アルノが身を乗り出した。
イルゼが一つ目の塔を押し出すと、アルノが声に出した。
「じゅう!」
「にじゅう」イルゼが二つ目を押す。アルノが三つ目を押して「さんじゅう!」と叫び、手代の一人が筆を取り落とした。
二人は交互に塔を押し出し、交互に数えた。帳場の手代たちが筆を止めて見ている。塔が卓の端から端まで並んでいき、夕日が塔の一つ一つの縁を赤く光らせた。百を越え、二百を越え、三百を越えた。
「よんひゃく!」
イルゼが、最後の六枚を一枚ずつ塔の脇に置いた。置くたびに、二人の声が交互に落ちた。「いち」「に!」「さん」「し!」「ご」「ろく!」
卓の上の金貨が、夕日の中で静まった。アルノの手元に残ったのは四枚だった。去年の秋、父の支度金を数えたときの三分の一。それでも、期限の日の日没には、まだ間があった。
アンゼルムは手代に金貨を数え直させた。手代が塔を一つずつ崩し、また積み直し、最後にうなずく。アンゼルムは笑みを深くして、受け取りの証文に署名し、封蝋を押した。秤と麦束の紋。
「毎度」
アルノは長い息を吐いた。膝から力が抜けそうになって、卓の縁を掴んだ。横でイルゼが、帳簿の赤い線の上に、黒い線を一本引いた。引いてから、ペンを置いて、もう一度その線を見ていた。
「イルゼさん、払えました! 期限の日に、払えました!」
「分かってる。見てる。あたしが引いた線だ」
「イルゼさん、笑ってます!」
「笑ってねえ。夕日だ」イルゼは帳簿で顔の半分を隠した。
「それと、イルゼさんの取り分は——」
「取り分の話は、帳簿を締めてからにしましょう」アンゼルムがにこやかに言った。証文を丸め、紐で括って、アルノの手に渡す。それから、ついでのように付け加えた。
「確かに。……ところで、残りの債権は、もう私どもの物ではなくなります」
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【第5章「雷壺」のあらすじと登場人物】(第41〜50話)
■あらすじ
杭に落ちた雷を塩水の壺に溜める試みは割れる壺から始まり、晴れた街道では壺の雷が届かず荷と仲間を傷つけられたが、釉と硝子の芯で「三日で半分」もつ雷壺に至る。父の求める硝子の大樹を渡さずに兄の婚儀を終え、大樹を競りにかけて、期限の日に返済を果たす。
■登場人物
◆アルノ・ブラウエン
ザーラ谷を預かる雷好きの保持者。杭の雷を壺に溜める工夫を重ね、「三日で半分」もつ雷壺にたどり着いた。晴れた街道では空が答えず、自分をかばった若者が刺され、「ぬるい」雷の味を知る。父の求める大樹は渡さず、谷のために競りへ出した。
◆イルゼ
谷の帳簿を預かる、ラッセル商会の取立人。割れた壺も「痺れ代」も帳簿に載せ、街道では棍棒で打たれながら騾馬を一頭取り戻した。婚儀の席で取立屋と嘲られても黙っていたが、期限の日にはアルノと交互に金貨の塔を押し出し、返済を数え切った。
◆ボルク
峠の守りの長を務める、元国境守備隊の百人長。「谷の外で、お前は火花だけだ」と言いながら、守りは峠の向こうの道も含むと街道へ同行した。襲撃では騾馬の前に立って槍で防ぎ、刺された若者を三日かけて谷へ運び帰った。
◆ハンネ
小石の壺で谷の雷を数える子ども。古い壺を銅貨二枚で手放しながら「貸したの」と言い張る。その厚い壺だけが割れずに青く光り、雷壺の始まりになった。ヴォルタに壺を貸す話でも、まず貸し賃を求める。
◆ズデンカ
契約で峠の西の見張りを請け負う黒羽団の頭。壺を積んで街道へ出るアルノに、「晴れの日に谷を出る雷使いは、ただの坊やだ」と告げた。壺があると言い張るアルノに「覚えておく」とだけ返し、契約の境で見送った。
◆ベアタ
谷で脈を取り続ける医師。脇腹を刺された若者を三日間診続け、命をつないだ。「他人の体の分まで数えさせるんじゃないよ」と、自分の体の限界だけでは済まない重さをアルノに突きつける。
◆ルドミラ
頬に雷紋を持つ陶工。最初に焼いた薄い壺は雷の熱で次々に割れたが、厚い壁、灰と長石の釉、雷硝子の芯を抱かせた壺を焼き上げた。「欲張りめ」と言いながら口の端を上げる、意地と腕のある職人だ。
◆ヴォルタ
村の子どもたちが名づけた白い雷獣。夏の夜ごと壺の雷を食べに来たが、自分用の壺を置かれると、ほかの壺には手を出さなかった。壺を抱いて眠る夜、忍び込んだ泥棒を青く光って追い払い、ほかの壺を一つも減らさせなかった。
◆エックハルト
アルノの父で、ブラウエン男爵家の当主。長兄の婚儀に大樹を献上品として持参せよと、追伸のない手紙を二度よこした。婚儀の席では目も合わせなかったが、帰り際に従者が届けた紙には、追伸が一行だけ書いてあった。
◆ディートリヒ
ブラウエン家の長兄で、この章で婚儀を挙げた。イルゼを嘲った客の前に「僕の婚儀の、客人です」と穏やかに割って入る。弟が一年手放さなかった七つ枝の硝子を受け取り、「念のため、一生、大事にする」と約束した。




