第48話 兄の婚儀
公家の王都屋敷の広間は、天井が高すぎた。見上げると、梁のさらに上に、色硝子の丸窓が三つ嵌まっている。夕方の光がそこから差し、磨き上げた床に赤と青の斑を落としていた。
燭台が壁に沿って何十と並び、客たちの袖口で金の刺繍が光る。空は見えない。雷の音も、ここまでは届かない。
「……息が詰まる」
イルゼが借り物の礼服の襟元を指で引っ張った。深い緑の布で、腰のところを紐できつく絞ってある。ミルデの古着屋で三日借りて、イルゼは値段を二度値切った。
「似合ってますよ、イルゼさん!」
「似合ってねえよ。帳簿を挟むところがねえ服は、服じゃねえ」
「帳簿、持ってきたんですか!?」
「外套の内側に置いてきた。……落ち着かねえ。手が空いてると、何していいか分かんねえ」
「私の手、握りますか?」
「握るか馬鹿!」
アルノも借りた礼服を着ていた。左の袖が肘のところで窮屈で、雷紋が布に擦れる。兄へ渡す包みを胸にしっかりと抱え、ときどき天井の色硝子を見上げては、窓の外の空の色を当てようとした。夕方の赤。雲は、たぶん西に薄く。空が見えないのは、落ち着かなかった。
広間の奥に、父がいた。エックハルトは公家の親族たちと並んで立ち、杯を手にして何か話していた。
アルノが入ってきたとき、父の目が一度だけこちらを向いた。目はアルノの手元の包みに落ち、その大きさが大樹のものでないと分かったところで、すぐに逸れた。それきり、父は一度もこちらを見なかった。
「……目、合いませんでした」
「合わせないようにしてんだよ」イルゼが低く言った。「あれは合わせないって決めてる目だ。取立てで何べんも見た。払う気のある奴ほど、ああいう目をする」
「払う気がある、んですか」
「さあね。あたしは親父さんの帳簿を見てない」
婚儀が済み、祝いの席になった。ディートリヒは花嫁の隣で、襟を何度も直しながら客の挨拶を受けていた。マティアスは近衛の礼装で、若い騎士たちに囲まれて大声で笑っている。アルノを見つけると杯を上げて片目をつぶり、そのまま騎士たちの輪に戻った。
アルノとイルゼが兄への挨拶の列に並んでいたとき、前にいた男が振り返った。公家の縁者らしい、指に三つも指輪を嵌めた中年の男だった。
「ブラウエンの三男殿か。雷の谷の」男はアルノの礼服を上から下まで眺め、それから隣のイルゼに目を移した。「そちらは奥方かな。いや、失礼。ラッセル商会の取立人だと、今そこで聞いた」
イルゼの肩が、わずかに固くなった。外套の内側の帳簿を探すように、右手が腰のあたりをさまよった。
「婚儀の席に取立屋を連れてくるとは、谷の懐はよほど寒いと見える。大樹の代わりに、借金の証文でも兄君に献上するおつもりか」
周りの客が、扇の陰で笑った。アルノは包みを抱えたまま、男の顔を見た。胸の奥が熱くなった。雷が杭に落ちる直前の、首筋の産毛が逆立つような熱さだった。
「イルゼさんは、私の谷の帳簿を預かっている人です!」
声が、広間の天井まで響いた。笑い声が止んだ。花嫁の隣で、ディートリヒが振り返った。
「谷に入るお金も出るお金も、全部イルゼさんが数えてくれています。イルゼさんがいなかったら、谷は去年の秋に麦を買えなくて、冬を越せなかったんです。取り消してください!」
「坊ちゃん」イルゼが袖を引いた。「いい。よせ」
「よしません!」
男は口元を歪め、何か言い返そうとした。そのとき、ディートリヒが列をかき分けて来て、弟と男の間に立った。
「念のため申し上げますが」長兄は穏やかに言った。「僕の弟の客人です。僕の婚儀の、客人です」
男は肩をすくめ、指輪の手を振って離れていった。扇の陰の笑いも、それきり聞こえなくなった。
アルノは長兄の前で、胸の包みを解いた。布の中から、透明な硝子の枝が出てきた。根元から七つに分かれた、逆さまの木。谷へ来て四日目に砂の中から掘り出し、売らないと言い張って、一年間ずっと手元に置いてきた一本だった。
「兄上。これは公家への献上じゃありません。私から兄上への、贈り物です」
「アルノ、これは……お前が大事にしてた」
「はい。だから、兄上にあげたいんです」
ディートリヒは両手で硝子を受け取った。燭台の灯りが枝の中へ入り、七つの枝先から、七つの色になって床へこぼれた。長兄は何か言おうとして言葉にならず、襟を直した。
「……念のため、一生、大事にする」
騎士たちの輪から、マティアスが杯を持ったまま抜けてきた。すれ違いざまに、アルノの手へ小さな革袋を押しつける。
「硝子五本の貸し。金貨二枚、利息なし、だったな」
「兄上! 春に来るって——」
「春は殿下のお供で南の離宮に詰めてた。殿下のお返事も、まだ出てない」マティアスは声を落とした。「ただな、殿下は五本とも手元に置かれて、あれから二度、谷の硝子の値を俺に訊かれた。二度だ。……俺に任せろ。次は行く」
言うだけ言って、兄は騎士たちの輪へ戻っていった。イルゼが革袋の口を覗き、外套の内側へ手をやりかけて、帳簿がないのを思い出した顔をした。
「……焦げつきの丸、帰ったら消しとく」
* * *
屋敷の門を出たところで、父の従者が追いかけてきた。老いた従者は、アルノに畳んだ紙を一枚渡すと、頭を下げてすぐに戻っていった。アルノは門の灯りの下で紙を開いた。
隣でイルゼが、借り物の礼服の襟を緩めながら、夜の通りを見ていた。
「……余計なこと、言いやがって」
「余計じゃありません」
「あたしは取立屋だよ。取立屋って言われて、何が悪い」
「悪くないです。でも、あの人の言い方は、悪かったです」
イルゼは何か言い返しかけて、口をつぐみ、紙を覗き込んだ。
本文はなかった。紙の下の余白に、小さな字で、一行だけ書いてあった。
追伸。腕は、両方大事にしろ。
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