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雷鳴の辺境伯  作者: 雅龍(がりゅう)
第5章 雷壺

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第47話 壺を抱く獣

 夜のうちに壺が空になり始めたのは、夏の盛りだった。夕方に満たして寝かせておいた壺が、朝には塩水だけを残して空っぽになっている。一つの夜もあれば、三つの夜もあった。壺は割れていない。蓋もずれていない。ただ、中の青だけが、きれいに消えていた。


「盗人だろ」樽屋の年寄りが言った。「峠の向こうの連中が、夜に来てる」年寄りは杖の先で空の壺を叩いた。


「盗人なら、壺ごと持っていきます」アルノは壺置き場の砂にしゃがみ込み、指で地面をなぞった。「……ほら」


 砂の上に、大きな足跡があった。山猫よりも大きく、狼よりも丸い。指の間に、細い毛が一本絡まって残っている。白い毛だった。アルノが指でつまむと、毛の先で、ぱち、と小さな火花が弾けた。


「ヴォルタだ!」アルノの声が、勝手に弾んだ。指の先の白い毛が、まだちりちりと鳴っていた。


 冬の終わり、白い獣は凍った湿地から退いた。春の間は、村を建てた日に尾根の中腹から一度こちらを見たきりで、近づいてはこなかった。夏になって雷が毎日落ちるようになれば、尾根で好きなだけ食べられる。そのはずだった。


「尾根の雷より、壺の雷のほうがおいしいんでしょうか」


「知るか!」イルゼが帳簿で自分の額を叩いた。「一晩三つ食われたら、壺三つぶんの雷が消える。売り物だぞ、あれは」


「追い払え」樽屋の年寄りが杖を握り直した。「あいつの足跡は、冬にわしの孫の脚を裂いた足跡だ」


 村の者たちが口々にうなずいた。槍を持ってこようと言う者もいた。脚に傷の残る少年は、何も言わずに足跡を見下ろしていた。


 湿地の夜のことが、アルノの頭に浮かんでいた。凍った氷の下に青い網が広がり、獣と自分の間に光の川ができた。あのとき、アルノは獣の背中側に一本だけ道を空けておいた。獣はそこから退いた。


「退き口を、作ります」


「は?」


「ヴォルタさんの分の壺を、一つ置きます。それを食べていいって分かれば、ほかのには手を出さないかもしれません」


「さんをつけんな。あと、その一つぶんは誰が払うんだ」


「私の分から、減らしてください」


「食わせたら居着くぞ、領主さま」ヤネクが言った。「獣ってのはそういうもんだ」


「居着いてくれたら、嬉しいです」


「……あんたは本当に、そういう奴だな」


 イルゼは長いため息をつき、帳簿に何か書いて、線で消し、また書いた。書き終えた数字を見て、もう一度ため息をついた。


 壺置き場の端、いちばん古い雷よけの杭の根元に、アルノはハンネの古い壺を据えた。塩水を張り、硝子の芯を立て、杭から細い鎖を一本垂らして口に差し込む。杭に落ちた雷の分け前が、そのままこの壺に入る。


「ハンネさん、この壺、ヴォルタさんに貸してもいいですか」


「貸し賃は?」ハンネは手のひらを差し出した。銅貨二枚では足りない、という顔だった。


「……イルゼさんに訊いてください」


「訊くな」


 その日の夕方、雷雲が尾根の東へ流れていく間際だった。壺置き場の端に、白いものが立っていた。いつから来ていたのか、誰も見ていなかった。


 ヴォルタは雷よけの杭の根元で、ハンネの壺の口に鼻先を寄せていた。細い体に長い尾。夕日を受けた毛並みが、うっすらと青い。


「……来た」


 戸口の陰で、アルノは息を殺した。隣でハンネが小石の袋を握りしめている。後ろにはイルゼと、村の子どもたちと、槍を持ちかけた男たち。誰も動かなかった。


 雲の端から、最後の一本が落ちた。杭の先を叩いた光が、鎖を下りずに、根元の獣の背へ跳んだ。ヴォルタの全身の毛が一斉に立ち上がり、白い体が内側から燃えるように青く光った。


 尾の先から耳の先まで、細い光の筋が毛並みの上を走り、弾け、もう一度走る。獣は身を低くして目を細めた。痛がっていない。喉の奥で、低く、長く、鳴っていた。


「今日のいちばん!」


 叫んでから、アルノは口を押さえた。獣がこちらを見た。青く光ったまま、しばらくアルノを見ていた。それから、ハンネの壺の口に鼻先を戻した。


「おいおい、坊ちゃん……」イルゼが小声で言った。「獣を褒めてどうすんだよ」


「だって、見ましたか!? あの光、尾の先まで!」


「見たよ。見たから黙れ。食われたいのか」


「ヴォルタさんは、人は食べません。雷を食べるんです」


「その雷が、今あんたの左腕にたっぷり詰まってんだろうが」


 言われて、左腕を見下ろした。雷紋が獣の方へ向かって、ちりちりと疼いていた。去年の秋、落雷の煙の中を歩く獣を初めて見たときと同じ疼きだった。あのときは、近づきたくて、二人がかりで襟首を引き戻された。今は誰も引き戻さない。アルノが、自分で動かずにいた。


     * * *


 その夜は月がなかった。戸口の内側で、アルノは毛布をかぶって壺置き場を見張っていた。見張るつもりで、いつの間にか膝を抱えてうとうとしていた。


 目を開けたとき、壺置き場が青かった。板の上に並んだ壺の口が、それぞれ小さな青い灯りになって、闇の中に点々と浮いている。


 その端、古い杭の根元に、白い獣が丸くなっていた。ハンネの壺を前脚で抱え込み、壺の口に顎を載せて目を閉じている。青い光が下から獣の顎と胸の毛を照らし、毛並みの上で、音もなく小さな火花が弾けては消えていた。弾けるたびに毛が波打つ。獣が息をするたびに壺の光がかすかに揺れ、獣と壺が同じ拍で息をしているように見えた。


 谷の奥で、雷の名残りの遠い光が一つ、尾根の向こうを照らした。アルノは声を出さずに数えた。いち、に、さん、し。音は来なかった。


 そのとき、壺置き場の反対の端で砂が鳴った。黒い人影が一つ、身を屈めて板へ近づいていた。背中に麻の袋。板の上の壺に手を伸ばし、一つを袋へ入れる。二つ目。村の者の歩き方ではなかった。


 アルノが立ち上がるより先に、ヴォルタが目を開けた。獣は壺を抱いたまま首だけを上げた。全身の毛が、ざっと立った。ぱちぱちと乾いた音が闇の中に連なり、白い体が青く燃え上がる。喉の奥の低い音が、地面を這うように広がった。


 人影は袋を放り出して逃げた。砂を蹴り、柵を越え、峠の方へ転がるように走っていく。ヴォルタは追わなかった。首を下ろし、壺の口に顎を戻し、また目を閉じた。


     * * *


 翌朝、壺置き場の端の砂には、人の足跡が残っていた。放り出された麻袋の中で、壺が二つ、割れずに転がっていた。旗の子どもたちの知らせで、峠の番小屋のボルクが足跡を見に下りてきた。


 ボルクはしゃがみ込んで、足跡の縁を指でなぞった。砂の上に、小さな丸い穴が点々と並んでいる。「谷の者の靴じゃないな。峠の西の、鋲を打った靴だ」


「鋲の靴なのに、雷の谷に夜入ってくるんですね」


「夜は落ちないと知ってる奴だ。壺の置き場所も知ってた」ボルクは峠の方を見た。「街道の連中と、根は同じかもしれん」


「谷の外じゃ壺が弱いってのも、街道の連中は聞かされてた」イルゼが帳簿の案内料の頁を繰った。「春から谷に下りてきた客を、全部洗い直す。蜜蝋売りのときと同じだ」


 板の端のハンネの壺は、空だった。ほかの壺は、一つも減っていなかった。ヴォルタの姿は、朝にはもうなかった。杭の根元の砂に、丸くなった獣の形のくぼみだけが残っている。


「ヴォルタさん、自分の分しか食べてません! それで、ほかのを守ってくれました!」


「で、餌代は誰が払うんだよ」イルゼが帳簿を開いた。


「ヴォルタさんの分は、私の分から減らしてください!」


「もう減らすとこねえよ」


読んでいただきありがとうございます!

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