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雷鳴の辺境伯  作者: 雅龍(がりゅう)
第5章 雷壺

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第46話 追伸のない手紙

 峠を越えてきた郵便の騎手が、革の筒を一つだけ置いていった。封蝋はブラウエン家の紋だった。アルノは卓の前で筒を両手で持ち、しばらく眺めてから開けた。父の手紙は、いつも本文が短く、追伸が長い。それを知ってから、アルノは父の手紙を最後の紙から読むことにしていた。


 紙は一枚だった。本文は五行あった。ディートリヒの婚儀は、夏の半ばに公家の王都屋敷で行う。公家の家令より、マティアスの報告にあった谷の硝子の大樹を、献上品として望むとの申し入れがあった。持参せよ。婚儀の三日前までに王都へ着くこと。遅れるな。


 アルノは紙を裏返した。何も書いていない。もう一度表に返し、下の余白を見た。空白だった。


「……ない」


「何が」帳簿をつけていたイルゼが顔を上げた。


「追伸です」


 手紙を受け取ったイルゼは本文を一度読み、帳簿の頁をめくって、ある行に指を置いた。


 大樹、とだけ書かれた行だった。値の欄には、まだ何も入っていない。けれどその行の下に、期限までの足りない額が赤い字で書いてある。


「大樹がないと、期限を払えませんよね」


「払えない。あれを競りにかけるか、谷を差し押さえられるか、どっちかだ」イルゼの声は平らだった。「あんたが決めな。親父さんの手紙だ」


「イルゼさんは、どう思いますか」


「あたしは取立屋だ。取立屋に訊けば、売れって言うに決まってる」イルゼはペンを耳に挟んだ。「でも、これは金の話だけじゃねえだろ。家の話だ。家の話は、あたしの帳簿には載らない」


「兄上の婚儀が、潰れたりしますか」


「公家がへそを曲げる。親父さんの顔が潰れる。婚儀は、たぶん潰れない。公家だって、縁談を一本の硝子で捨てるほど馬鹿じゃねえ」


 アルノは天気帳の最後の頁を破り、返事を書いた。今度は両手で書けた。左手の雷紋は肘から肩へ伸びて、夏の日に焼けて白く浮いている。


 父上へ。婚儀のお知らせ、ありがとうございます。兄上に、おめでとうございますとお伝えください。必ず伺います。大樹は、お持ちできません。あれは谷の、今年の期限の金です。谷には今、四百人を超える人が暮らしています。大樹を公家に差し上げたら、その人たちの住む谷が、夏の終わりに債権者のものになります。代わりの贈り物は、私が考えて持っていきます。


 追伸。雷壺ができました。三日で半分です。


 書き終えて、アルノは追伸の二行をしばらく見ていた。


「追伸、それでいいのか」イルゼが覗き込んだ。「壺の話かよ」


「父上は、私の帳面を十年、知ってて黙ってたんです。だから、今いちばん嬉しいことを書きます」


 アルノは封をした。封蝋が固まるまで、指で押さえていた。


     * * *


 返事を待つ九日のあいだ、アルノは何度か、半地下の奥の物置へ下りた。


 大樹は、藁を詰めた長い木箱の中に寝かせてあった。蓋をずらすと、暗がりの中で、硝子の幹がかすかに外の光を拾う。去年の秋、砂の中から掘り出したとき、幹の根元にはまだ熱が残っていた。今は冷たい。指で触れると、指の腹がつるりと滑った。幹の中には、雷の通った筋が白く一本残っている。明かり取りの光に透かすと、その筋だけが、落ちた日の午後の色をしていた。


「売るの?」ハンネが後ろから覗き込んだ。


「売ります。たぶん」


「たぶん、ってイルゼが怒るよ」


「怒られます」アルノは蓋を戻した。「でも、あげるよりは、売るほうがいいんです。売ったら、谷に残るから」


「谷に残ったら、ハンネも数えられる?」


「数えられます。お金になって、麦になって、ハンネさんのお皿に戻ってきます」


 ハンネは首をかしげ、よく分からない顔のまま、小石の壺をからりと鳴らした。


 返事は、九日後に来た。同じ紋の封蝋。同じ筆跡。紙は、やはり一枚だった。本文は三行になっていた。大樹を持参せよ。公家の申し入れは、断れるものではない。家のためだ。


 紙を裏返した。白い。表に返す。下の余白を見る。白い。もう一度裏返す。窓の明かりに透かしてみる。父の字は、表の三行のほかにどこにもなかった。


「……ない」


 手紙を卓に置き、また手に取り、また裏返した。明かり取りの窓から落ちる光の中で、紙の白さだけが何度もひっくり返った。


「父上は、追伸に本当のことを書くんです」アルノは言った。誰に聞かせるでもない声だった。「本文は、家のことを書く。追伸は、父上のことを書く。追伸がないってことは……」


 言葉が続かなかった。


 十歳の冬、熱を出して屋根裏から下りられなかった夜に、父は一度も上がってこなかった。翌朝、枕元に水差しと、紙が一枚置いてあった。本文はなく、追伸だけが書いてあった。窓を閉めて寝ろ。雷は窓からでも見える。その紙は、まだ帳面の束に挟んである。


 唇を噛んで、手紙を折った。折り目が揃わず、もう一度折り直した。


「イルゼさん。大樹は、渡しません」


 イルゼは帳簿の大樹の行に指を置いたまま、アルノの顔を見ていた。何か言えば、帳簿の数字の話になる。数字の話なら、イルゼはいくらでもできる。だから、答えなかった。


 窓の外で、午後の最初の雷が鳴った。アルノは数えなかった。


読んでいただきありがとうございます!

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