第44話 ぬるい雷
三日目の昼、街道は伯領の外れの涸れた窪地へ下りていた。両側の土手に灌木が茂り、道は騾馬がやっと並べる幅に狭まる。日は真上にあった。影がない。アルノは朝から何度も空を見上げ、そのたびに目を細めて下を向いた。
「嫌な道だ」ボルクが低く言った。「上から見下ろされる」
「迂回しますか?」
「迂回すると一日延びる。壺が、もう一日減る」
「……行きます」アルノは騾馬の首を軽く叩いた。騾馬は耳を動かした。
土手の上で、鳥が一斉に飛び立った。
「伏せろ」
ボルクの声と同時に、灌木の中から人が湧いた。二十ほど。顔を布で覆い、木の盾に革を張って、手には棍棒と短い槍。鉄の兜をかぶった者は一人もいない。散らばり方が妙だった。互いに三歩ずつ離れて、横一列に並んで下りてくる。
* * *
土手の上の灌木の陰で、男は盾の縁から騾馬の列を数えていた。布の下で、草の茎を噛んでいる。
先頭の騾馬の背に、藁を詰めた木箱。雇い主の言ったとおりだった。谷を出て三日目の昼、晴れ。壺の中身は、谷を出た朝の四分の一。雷使いの坊やが本物の雷を呼べるのは、あの谷の午後だけだ。
「間を空けろ。固まるな。雷は一本で隣へ跳ぶ」男は手下に言った。「先に箱の騾馬を狙え。坊やの手元から壺を離せ」
* * *
アルノは木箱の蓋を跳ね上げ、壺の口に右手の指を差し入れた。
塩水はぬるかった。指先から肘へ、細い痺れが這い上がってくる。空に呼ぶときの一本とは比べものにならない、糸のような痺れ。それを指先に集め、先頭の盾へ向けて放った。
青い糸が伸びた。伸びて、盾の手前、腕一本ぶんのところで、ふっと細くなって消えた。
「えっ——」
盾の男が一瞬足を止め、それから笑った。
「本当だ。弱えぞ!」
「坊やの雷は谷に置いてきたとさ! 箱をもらえ!」
二つ目の壺。今度は近くまで引きつけて放つ。糸が盾の縁を叩き、男が一人、膝から崩れた。三つ目で、もう一人。四つ目は、手を入れた瞬間に中身が尽きて、指先がぴりっと鳴っただけだった。
アルノは空へ指を上げた。火花を灯す。ぱち。
空は、答えなかった。
雲がない。青い空が、指先の粒を黙って飲み込んだ。火花を二つ三つ、目の前の男の手首へ飛ばす。男は顔をしかめて棍棒を持ち替えただけだった。
「なんで来ないの……!」アルノはもう一度指を上げた。ぱち。空は青いままだった。
「坊ちゃん、下がれ!」
イルゼの声がした。ボルクが槍を横に払い、先頭の騾馬の前に立って三人を止めている。その脇を、別の男たちが駆け抜けた。
列の後ろの騾馬の手綱が切られ、荷を背負ったまま土手の上へ引っ張られていく。イルゼが騾馬の首にしがみついて一頭だけ引き戻し、棍棒で肩を打たれて砂の上に転がった。
「待ってください! それは教会の窓の——」
追おうとしたアルノへ、短い槍が突き出された。その前に、若い槍持ちが飛び出した。春に広場で左へ歩き、村を選んだ元傭兵の若者だった。槍は、若者の脇腹に深く入った。
若者は声を上げなかった。膝をつき、それから横向きに倒れた。
男たちは退いた。叫び声も上げず、散らばったまま土手を上がり、灌木の向こうへ消えていく。倒れた二人も、仲間に肩を貸されて一緒に連れていかれた。引き際まで、揃っていた。
* * *
窪地に、騾馬の荒い息と、蝉の声だけが残った。イルゼが若者の脇腹を外套で押さえていた。布がみるみる赤く濡れていく。ボルクが自分の帯を解いて、上からきつく巻いた。アルノは膝をついて、若者の顔を覗き込んだ。唇が白い。
「ごめんなさい……ごめんなさい。私が、壺があるって、言ったから」
「……領主さま、あれ、光ってましたよ」若者はかすれた声で言った。「きれいでした」
「きれいじゃ、だめなんです!」
「喋らせるな」ボルクが言った。「宿場に医者はいない。谷まで持たせる」
「三日かかります!」
「なら三日、持たせる」
イルゼが打たれた肩を押さえながら、騾馬の数を数えた。荷は三分の一がなくなっていた。硝子の大枝の箱が、どちらも持ち去られている。いちばん値のつく荷だった。
「イルゼさん、肩……」
「折れてねえ。騾馬一頭ぶんの荷を、肩一つで取り返したんだ。安いもんだよ」
「……大枝から先に取ってった」イルゼは土手の上を睨んだ。「箱の中身まで知ってる奴らだ。山賊の取り方じゃねえ」
「谷を出た日も、壺の数もな」ボルクが、踏み荒らされた土手の灌木を見上げた。「知られてる」
アルノは空の壺を一つ、両手に抱えていた。底に残った塩水に指を浸す。指先に、痺れもしないぬるい滲みが残っているだけだった。
舌の奥に、あの味が来た。谷の一本の、胸まで焼くような甘さでも、しょっぱさでもない。日向に置き忘れた水のような味だった。
「……ぬるい」
誰も何も言わなかった。ボルクが若者を騾馬の背に担ぎ上げ、手綱を取った。歩き出す前に、一度だけ、アルノの方を振り返った。
「谷の外で、お前は火花だけだ、と言った」
アルノは空の壺を抱いたまま、うなずいた。うなずいた拍子に、壺の底の塩水がちゃぷんと鳴った。
「……言われました」
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