第43話 晴れた街道
帳簿の右の欄の一番下に、イルゼが赤い線を引いた。
「夏の終わりまで、あと二月あまり。この夏の荷が全部売れて、期限の日の手元は二百五十ちょっと。それでも百五十足りねえ。春に選り場の半分を焼かれた分が、そのまま穴になってる」
アルノは帳簿を覗き込んだ。数字の列の中に、焼けた選り場の夜が挟まっている。溶けて赤く垂れた硝子の枝の色を、アルノはまだ覚えていた。
「エーミルの爺さんの教会の窓と、細工通りの注文。夏の分をまとめて、一度に運ぶ」イルゼは指で表を叩いた。「騾馬六頭。荷は硝子の大枝と雷木の車軸。峠の西の見張り小屋までは黒羽の連中が送る。そっから先は、いつもなら組合の商隊にくっついて行くんだけど」
「最近、伯領の外れで荷が狙われてるんですよね」
「狙われてる。組合の荷は通れて、組合の外の荷だけがな。偶然にしちゃ、選び方が上手すぎる」
「護衛を雇ったら?」
「雇う金があったら、そもそもこんな勘定してねえよ」
「私が行きます!」
アルノは卓の端に並べた壺を、両手で示した。ルドミラが焼き直した厚い壺が四つ。ハンネの壺ほどずんぐりはしていないが、壁は指一本ぶん厚い。一週間かけて、割れずに光を溜められるところまで来ていた。
「壺があります! 谷の外でも、雷を持っていけます」
番小屋から下りてきていたボルクが、戸口の柱にもたれたまま、右の耳をこちらへ向けた。左頬の古い火傷が、明かり取りの光の中で引きつった。
「谷の外で、お前は火花だけだ」
「壺があります!」
「壺の中身は、どのくらいもつ」
「……一日で、半分です。でも、四つあります」
ボルクは何も言わず、戸口から自分の槍を取り、穂先の革袋の紐を締め直した。締め終えると、穂先を一度だけ窓の光にかざした。
「来るんですか!?」
「峠の守りは、峠の向こうの道も含む。お前がそう任じた」ボルクは槍を肩に担いだ。「番小屋は黒羽の連中が見る。あの女は、留守番の値も吹っかけてくるだろうがな」
「手を貸すとは言ってない、って言わないんですか」
「言ってほしいのか」
「いえ! 来てください!」
出立の朝、四つの壺は雷で満ちていた。前の日の午後、壺置き場の杭に落ちた分を鎖で受けて、一晩寝かせてある。硝子の枝で数えると、どの壺も十をいくつか越えた。騾馬の背に藁を詰めた木箱を渡し、壺を一つずつ沈める。村の子どもたちが旗を振って見送った。
峠の西の見張り小屋で、ズデンカが待っていた。黒い羽根を一本髪に挿して、岩の上から街道の先を眺めている。
「ここから先は、契約の外だ」ズデンカは振り向かずに言った。髪の羽根が、乾いた風に揺れた。
「分かってます。ここまで、ありがとうございました!」
ズデンカは騾馬の背の木箱に目をやり、それから空を見上げた。雲が一つもない。西の穀倉へ続く街道は、まぶしいほど白く乾いていた。
「晴れの日に谷を出る雷使いは、ただの坊やだ」
「壺があります」
「覚えておく」ズデンカはそう言って、岩から下りた。「あんたが、そう言ったことを」
一日目は何も起きなかった。麦畑の間の白い道を、騾馬の蹄がぽくぽくと鳴らしていく。アルノは空を見上げては雲を探した。どこにもない。頭の上には、底の抜けたような青が広がっているだけだった。
「……晴れてますね」アルノは首が痛くなるほど空を仰いだ。
「晴れてるな」
「ずっと晴れてますね」
「坊ちゃん、それ今日だけで十回目だぞ」イルゼは騾馬の首を叩いた。「谷の外の夏は、こういうもんだ。麦が育つ空ってのは、これだよ」
「こんなに何もない空、初めてです」麦の穂の先が、風もないのに光っていた。アルノにはそれが、ひどく静かに見えた。
昼過ぎ、鍋と寝具と子どもを荷車に積んだ一家とすれ違った。東へ、峠のほうへ歩いていく。振り返ったイルゼが指を折った。
「今週で四家族目だ。伯の買い上げ値が、また下がったんだとさ」
「嬉しそうに言うなよ。穀倉の連中が聞いたら怒る」ボルクが前を向いたまま言った。
アルノは曖昧に笑って、帳面に何も書かなかった。晴れた日は、書くことがない。屋根裏にいた頃から、晴れた日のアルノは帳面に顔を埋めて、雲の来る日を指で数えて過ごした。その癖が、麦畑の真ん中でも出ていた。
夕方、野営の火のそばで、イルゼが干し肉を裂きながら言った。「坊ちゃん。谷の外で雷を見たことあんのか」
「ありません。屋根裏から見てたのは、遠くの雲だけです。王都の近くは、夏に何度か鳴るくらいで」
「じゃあ、あんたは谷の外の空を、知ってるつもりで知らねえんだな」
「……知ってるつもりでした」アルノは干し肉を受け取り、噛まずに握っていた。「晴れの日の数は、帳面に書いてあります。でも、晴れの日に雷が要ったことは、一度もなかったんです」
二日目の夜、伯領の外れの宿場の手前で野営をした。焚き火の明かりが届かない荷の陰で、アルノは木箱の蓋を開け、壺の口を覗き込んだ。
昨夜より、暗かった。塩水の底の青は、夕暮れの湖の色になっていた。硝子の枝を差して、杭の代わりに地面へ刺した短刀へ近づける。糸が伸びる。
「いち、に、さん」
消えた。
アルノは二つ目の壺の蓋を開けた。三つ目。四つ目。どれも同じ暗さだった。焚き火の向こうで、ボルクがこちらを見ている気配がした。アルノは壺の口を覗き込んだまま、しばらく顔を上げなかった。
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