第42話 痺れる壺
翌朝、アルノは夜明け前に起きて、壺置き場へ走った。ハンネの壺は、板の上にそのままあった。狭い口に顔を寄せると、塩水の底で青い光がまだ揺れていた。昨日の夕方より暗い。それでも、消えていない。
「残ってる……! イルゼさん、一晩、残ってます!」
「朝っぱらから叫ぶな」寝癖のまま外套をはおったイルゼが、あくびをしながら半地下の戸口から出てきた。「どれ」
イルゼは壺の口に人差し指を差し入れた。指先が塩水に触れた瞬間、イルゼの体が真上に跳んだ。外套の裾がめくれ、束ねた髪がほどけて、一本残らず逆立つ。着地したイルゼは手首を押さえたまま、壺とアルノを交互ににらんだ。
「……坊ちゃん」イルゼの声は低かった。髪の先が、まだ一本ずつ浮いている。
「はい!」
「先に言え」
「すみません! でも、すごいです! 今、イルゼさんの髪、ヴォルタみたいでした!」
「獣と比べんな!」イルゼは逆立った髪を両手で撫でつけ、撫でつけたそばからまた浮いてくるのを見て舌打ちした。「……これ、売るときは値札に痺れ代込みだからな」
「痺れ代って、いくらですか?」
「あたしが今払った分だよ。高えぞ」
アルノは天気帳を開き、壺の前にしゃがみ込んだ。細い雷硝子の枝を一本、壺の口から塩水へ差す。反対の端を地面に打った短い杭へ近づけると、枝の先から杭へ、青い糸がすうっと伸びた。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、く、じゅう」十まで数えたところで、糸は細くなって消えた。
「何してんだよ」
「量を数えてます。糸が消えるまで、いくつ数えられるか。昨日の夕方は、もっとありました」
「で、夕方にはいくつになるんだ」
「分かりません。だから、数えます」
昼前、アルノは壺を抱えて村の東の外れへ行った。ヤネクの鍛冶場は、谷へ来てからまだ一度も火が入っていなかった。雷木の柱に芝屋根を載せた小屋の中に、炉と鞴と金床が据えてある。金床の上には、春の荷でミルデから届いた鉄の棒が一本、手つかずのまま横たわっていた。
ヤネクは戸口の外に座って、木の柄に麻縄を巻いていた。腕の太い男で、髭の半分が焼けて縮れている。まくった袖の下では、手首から肘へ、雷紋が太い幹のように一本這っていた。
「また来たのか、領主さま。火は入れねえよ」
「入れてほしいんです。村の鍬も、峠の車軸の金具も、ミルデまで直しに出してたら、お金がいくらあっても足りません」
「入れられねえんだ」ヤネクは縄を巻く手を止めなかった。「火打ち金を握ると、手が勝手に離す。鉄と石を打ち合わせた火花を見ると、あの日の炉が、全部白くなる」
「あの日って、打たれた日ですか」
「炉の前で鉄を打ってた。金床に落ちたのが、握ってた槌から腕へ来た。三日目に目を開けたら、炉も小屋も燃え落ちてた」ヤネクは縄を巻く手を止めた。太い指が、縄の上でかすかに震えている。「この谷の家は、どこにも鉄がねえ。だから来た。けど鍛冶場には、どうしたって鉄がある」
アルノは黙って壺を炉の前に置いた。硝子の枝を塩水に差し、先を炉の焚きつけの藁へ向ける。
「ヤネクさん。火打ち金なしで、火をつけられたら、どうですか」
ヤネクが顔を上げた。焼けて縮れた髭の奥で、唇が動いた。
青い糸が一本、壺の口から藁の中へ伸びた。ぱち、と小さな音がして、乾いた藁の芯に赤い点が生まれ、細い煙が立った。ヤネクは縄を放り出し、四つ這いで炉へ寄って息を吹きかけた。赤い点が広がり、炭に移り、炉の底が明るくなる。ヤネクが鞴を踏む。炎が立ち上がった。
ヤネクは炎の前に膝をついたまま、しばらく動かなかった。炎の色が、太い腕の雷紋を赤く照らしていた。
「……熱いな」
「熱いです!」
「当たり前だ、馬鹿」ヤネクは袖で顔を拭い、火箸で炭を寄せた。「……青かったな。火の出どころが」
「雷は、最初は青いんです。燃えるものに移ると、赤くなります」
「知ってる。俺の鍛冶場が燃えたときも、そうだった」ヤネクは言った。鉄の棒には、まだ手を伸ばさない。それでも、炉の火からは目を離さなかった。
夕方、アルノは壺の前でもう一度数えた。糸は、ごで消えた。
「朝が十で、夕方が五」アルノは天気帳に書きつけた。「一日で、半分です」
「半分な」イルゼは帳簿の余白に、何かを書いては消した。「つまり明日の朝には、ほぼ空か。売り物にするには足が短すぎる」
「でも、火はつきました」アルノは鍛冶場の方を指さした。芝屋根の端から、細い煙が一筋、夏の空へ上がっていた。
「つきたての火だけ売っても、客は翌朝また来るよ。毎朝来る客は、値切りも毎朝だ」イルゼはペンの尻で壺の縁を叩き、叩いた指を慌てて引っ込めた。痺れはもう来なかった。
「毎朝来てくれるなら、嬉しいです」
「あんたはな」
鍛冶場の方から、金床を打つ音が一つ、遅れて響いた。もう一つ。間を置いて、また一つ。村の子どもたちが、何事かと戸口に集まってくる。
アルノが覗くと、ヤネクが火箸で赤い鉄を挟み、背中を丸めて槌を振っていた。手が震えている。震えたまま、振り下ろしていた。ヤネクは槌を止め、振り返らずに言った。
「……鉄を打つ火を、雷からもらうとはな」
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