第41話 割れる壺
ハンネの二つの壺のうち、古いほうが銅貨二枚で谷の持ち物になった。
「五枚って言った」ハンネは岩の上で、もう片方の壺を膝に抱えたまま口をとがらせた。
「言ったな。で、あたしは二枚って言った」イルゼは帳簿に一行書き足し、銅貨を二枚、ハンネの手のひらに落とした。「残りは、この壺に雷が入ったら払う。入らなかったら、壺はただの壺だ。ただの壺に五枚は出せねえ」
「入ったら、いくら?」ハンネは身を乗り出した。壺の口に顔を突っ込みそうな勢いだった。
「入ってから考える」
「ずるい」
「商売ってのはな、先に考えたほうが負けなんだよ」
ハンネは銅貨を握りしめ、古い壺の小石を一つ残らず岩の上へあけた。去年の夏から数えた雷の数だけ溜めてきた小石が、夏の日を浴びて白く光る。ハンネはそれを新しいほうの壺へ一つずつ移し替え、移し終えると、空になった古い壺の口を指でなぞった。
「……ちゃんと、返してね」
「売ったんだろ」
「貸したの」ハンネは古い壺を抱えて、並んだ壺の列の端まで運んでいった。置いてから、もう一度口を撫でた。
夏の初めの谷は、朝から蒸していた。春に出した告知は、夏になっても街道を歩いているらしく、雷紋のある者が今月だけで十と幾人、峠を下りてきた。袖をまくって見せる者もいれば、最後まで襟を開かない者もいた。
湖の上に白い靄がたまり、尾根の上にはもう綿のような雲の芽がいくつも浮いている。今日の雷は早い。アルノは空を見上げて、にやけるのを止められなかった。
尾根の麓の選り場跡に、素焼きの壺が二十ほど並んでいた。春に焼けた窯を建て直したばかりのルドミラが、腕まくりをしたまま並んだ壺をにらんでいる。頬の雷紋が、日に焼けて白く浮いていた。
前の村では、雷の落ちた窯が「雷を呼ぶ窯」と呼ばれ、ある晩叩き壊された。この谷では誰も窯を壊さない。代わりに、領主が壺を割らせろと言ってくる。
「で、領主さま。あたしの壺に、何を入れるって?」
「雷です!」
「聞こえてる。聞こえてるから訊いてんだ」
アルノは地面に棒で絵を描いた。いちばん背の高い雷よけの杭から、鎖を一本引く。鎖の先を、塩水を張った壺の中へ垂らす。壺は乾いた雷木の板の上に置く。
「濡れた地面は、雷を這わせます。乾いた木は、通しません。だったら、濡れたものを乾いたもので囲んだら、雷は出口をなくして、中に残るんじゃないかって。湖も、夕立のあと、しばらく水の縁がちりちりしてるんです」
「なんで塩水なんだい。真水じゃだめなのか」
「真水より塩水のほうが雷がよく這うんです。湖の南の、岸の土がしょっぱいあたりは、夕立のあといつまでもちりちりしてて。……前に一度、裸足で入って、跳びました」
「跳んだのかよ」イルゼが帳簿から顔を上げずに言った。「領主が浅瀬で跳ねてんの、村の誰かに見られてねえだろうな」
「ハンネさんに見られました」
「見た。三回跳んだ」
「杭に落ちた雷を、壺で受けるってことか」ルドミラは鼻を鳴らした。「あんたの体は通さないんだろうね」
「通しません! 杭と鎖が、私の代わりです」
イルゼが帳簿から顔を上げた。「それは値札に書いとけ。ベアタの婆さんが喜ぶ」
正午を過ぎて、雲の底が黒く垂れた。アルノは杭から離れた岩陰に、ハンネと並んで伏せた。一本目は尾根に、二本目は湖に落ちた。三本目が杭の先へ吸い寄せられ、鎖を青く駆け下りて、並んだ壺の口という口へ散った。
ぱん、と乾いた音がした。いちばん手前の壺が、真ん中から二つに割れた。塩水が湯気を上げて板の上にこぼれ、じゅっと鳴る。隣も割れた。その隣は縁が欠けて、底から湯が噴いた。
「割れた! ルドミラさん、割れました!」
「見りゃ分かる! 何で嬉しそうなんだよ!」
「中まで入ったってことです! 入らなきゃ、割れません!」
四本目、五本目。杭に落ちるたびに、壺は二つ三つずつ湯気を上げて割れていった。岩陰のハンネは、一本ごとに新しいほうの壺から小石を一つ出して、手のひらに並べていた。ルドミラは割れた壺の破片を拾い上げ、断面を指でなぞって顔をしかめた。
「塩水が一気に煮えてる。壁が薄すぎるんだ。あたしは水甕のつもりで焼いた」
「厚くしたら、中が見えません! 光ってるかどうか、見たいんです」
「見たいかどうかで壺を焼くな。割れない壺が先だ」
「割れないで、光が見える壺がいいです!」
「欲張りめ」ルドミラは破片を放った。放ったあとで、口の端が上がっていた。
「欲張りです!」
言い合う二人の横で、イルゼが割れた壺を数えていた。指を折るたびに、帳簿の右の欄に線が一本ずつ増えていく。
「坊ちゃん。今日割ったのは十と七つ。焼き賃と土で、一つ銅貨八枚」
「……高いですか」
「安いよ。安いけど、あんたの借金が今日、壺の山ひとつぶん増えた。硝子を一本掘れば取り返せる額だ。だから掘るのをやめんなよ」
「やめません!」
雲が東へ流れ、雨がぽつぽつと落ち始めた。板の上は破片だらけで、塩の匂いと焦げた土の匂いが混ざっている。ルドミラは黙って破片を掃き寄せ、アルノは泥だらけの膝で壺を一つずつ覗いて回った。どれも空っぽで、底に白い塩が焦げついているだけだった。
「……全部、だめでした」アルノは膝の泥を払いもせずに座り込んだ。雨が首筋に落ちた。
「一つ、残ってる」
ハンネが列のいちばん端を指さした。そこにあったのは、ずんぐりした古い壺だった。何年も雨ざらしにされた厚い素焼きで、口が狭く、縁が少し欠けている。ハンネの小石の壺だった。割れていない。湯気も上がっていない。
「……あたしが焼いたのより、ずっと厚い」ルドミラが呟いた。「昔の職人の、下手くそな壺だ」悔しそうな声だった。
アルノは泥の中を這うように近づき、狭い口から中を覗き込んだ。
塩水の底が、青く光っていた。
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