第40話 小石の壺
春の終わりの午後、イルゼは帳簿を閉じたまま、しばらく開かなかった。
「……開けてください」
「開けても、数字は変わんねえよ」
イルゼは帳簿を開いた。左の欄に、春の硝子と雷木と峠の案内料。右の欄に、家の雷木と、堰の材木と、増えた口の麦と、ズデンカの隊の日当。左のほうが長い。それでも、左の欄の一番下に書かれた数は、期限の額の四分の一にも届いていなかった。
「期限まで、百日を切った」イルゼはペンの尻で頁を叩いた。「選り場の半分が焼けてなけりゃ、半分には届いてた。夏の午後が掘る分を全部足しても、届くかどうかは五分と五分。……届かなかった時の手は、あるにはある」
「五分と五分……」
「それと、近衛の兄貴の貸し。硝子五本、春までに返すって約束だったな」イルゼは帳簿の端の一行に指を置いた。「春は、今日で終わりだ。手紙の一通も来ねえ」
「兄上は、忙しいので……」
「忙しい奴の貸しがいちばん焦げつくんだよ」イルゼは一行の横に、小さく丸をつけた。取り立ての帳簿で、その丸が何を意味するのか、アルノは訊かなかった。
イルゼの目が、半地下の奥の物置へ動いた。布をかけた、長い木箱がある。中に寝かせてあるのは、秋の終わりに砂の中から掘り出した硝子の大樹だった。
アルノの背中が、ぴんと伸びた。
「あれは……」
「まだ何も言ってねえ」イルゼは帳簿を閉じた。「言ってねえから、あんたも何も言うな。まだな」
* * *
雷が遠のいた頃、アルノは領主館を出て、谷を歩いた。
湖の岸の草地に、芝の屋根が六つ並んでいた。雷の中で建てた家だ。屋根の芝はまだ根が浅く、ところどころ土が覗いている。戸口から夕餉の煙が上がり、中から峠の西の訛りと、傭兵上がりの荒い声と、谷の年寄りの声が混ざって聞こえてきた。どの家の脇にも、雷よけの杭が立っている。
段々畑では、縁の石が半分ほど組み直されていた。直した段の土の上に、細い緑が点々と並んでいる。雷のあとに蒔いた豆が、芽を出していた。穀倉の村から来た若い男が、芽の数を数えながら畝のあいだを歩いていた。アルノに気づくと、泥だらけの手を上げた。
「領主さま。今日の雷のあとの分、もう蒔いといた」
「ありがとうございます! 芽、出てますね!」
「雷の年の豆だ。出るさ」
湖の岸の砂地では、ルドミラが三つ目の窯の前にしゃがみ込んでいた。焼けた窯の殻の隣に、同じ形の丸い窯がもう一度建っている。窯の口の前に、朝に焼いた鉢と壺が並んでいた。ルドミラは一つずつ手に取り、指の節で縁を叩いては、音を聞いている。
「割れました?」
「割れなかった」ルドミラは壺を置いた。「あんたの白い泥、混ぜたやつは一つも。混ぜないのは、半分割れた」
「すごい! 流れてきた泥が、役に立ちました!」
「流すなって話は、どこ行ったんだよ」ルドミラは、イルゼの口真似をして言った。言ってから、自分で呆れた顔をした。「……あの女の口が移った」
峠道のほうから、黒い羽根の列が、騾馬を二頭引いて下りてきた。峠の西の宿場まで、硝子を届けた帰りだった。先頭のズデンカが、村の杭の輪を見上げながら通り過ぎていく。
家が建ち、豆が芽を出し、窯が割れなくなった。帳簿の一番下の数だけが、動かなかった。
* * *
夕暮れ、アルノはハンネの岩へ行った。
広場の隅の岩の上で、ハンネが素焼きの壺を二つ抱えて座っていた。今日の分の小石を、一つずつ数え直している。雷のあとの空は晴れて、尾根の上に崩れた雲の残りが、夕日に赤く染まっていた。アルノは岩の下に腰を下ろした。
「今日、何本でした?」
「七十と、三つ」ハンネは壺を揺すった。からからと鳴った。「春で、いちばん」
「七十三本……」
七十三本の雷が、今日、この谷に落ちた。落ちて、光って、音が鳴って、それで終わった。杭に落ちた分は、杭の根元の草を焦がして地面へ消えた。湖に落ちた分は、湖の上を這って消えた。硝子になった分だけが、次の朝、砂の中に残る。
この谷には毎日、国じゅうのどこよりも雷が落ちる。そのほとんどが、落ちた瞬間に消えていく。谷の外へは、一本も持ち出せない。硝子の枝を売っても、雷の抜け殻を売っているだけだった。
「ハンネさん。その小石、ずっと溜めてるんですか」
「溜めてるよ。昨日の分も、おとといの分も。こっちの壺に入れて、数えたら、こっちの壺に移すの」
「数えたあとも、捨てないんですね」
「捨てたら、昨日のが何本だったか分かんなくなる」
「私の天気帳と、同じですね」
「ちがうよ」ハンネは壺を膝の上で抱え直した。「領主さまのは、字だもん。ハンネのは、重いの。いっぱい落ちた日は、壺が重い。持つと分かる」
「重い……」
「冬は軽かった。今日はいちばん重い」
アルノは壺を見た。素焼きの、何の変哲もない壺だった。口が少し欠けている。中に、今日の雷が七十三個、小石の形で詰まっている。
アルノは岩に手をついて立ち上がり、壺の口にそっと指を入れた。小石は冷たく、指の先で、からりと転がった。
雷も、こうやって溜めておけたら。
落ちた雷を、落ちた瞬間に消してしまわずに、壺の中に入れて、蓋をして。谷の外へ、背負って持っていけたら。晴れた日に、晴れた街道で、壺の蓋を開けたら。
アルノの指先で、火花が一粒、勝手にぱちりと鳴った。
「……領主さま?」
「ハンネさん!」アルノは壺から指を抜き、ハンネの前にしゃがみ込んだ。目が、嵐の日の色をしていた。「その壺、一つ売ってください!」
ハンネは壺を抱え直し、アルノの顔をじっと見た。
「お給金は?」
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【第4章「雷に好かれた者たち」のあらすじと登場人物】(第31〜40話)
■あらすじ
春、捕虜六十のうち四十一人が谷に残り、雷紋を持つ職人や峠の西の若者たちも加わって、谷の人は倍以上に増えた。段々畑の土が夕立に流されていたと突き止め、雷の中で家を建てる一方、何者かの放火で選り場の硝子が半分焼ける。返済期限まで百日を切った夕暮れ、アルノはハンネの小石の壺を見て、雷を溜めることを思いつく。
■登場人物
◆アルノ・ブラウエン
ザーラ谷の保持者。白い泥と黒い土から、段々畑の土が夕立に流されていたと見抜いた。選り場を焼かれた日は雷を見に出ず、「今度は、足を読みます」と火付けの足取りを追った。家の梁を上げる午後には二本の雷を杭の輪へ振り分ける。最後に「その壺、一つ売ってください!」と言い出した。
◆イルゼ
ラッセル商会の取立係で、谷の帳簿係。峠の案内料の控えから火付けの「蜜蝋売り」を見つけ、焚き口の藁に組合の倉の菜種油の匂いを嗅ぎ当てた。損害に利息をつけた請求書を組合長宛てに持ち帰らせる。夏の期限には五分五分と言い、布をかけた木箱の中の、硝子の大樹に目をやった。
◆ボルク
峠の番小屋に住む元百人長。アルノの頼みで、峠の守りの長を正式に引き受けた。戻ってきた黒羽団に「峠の守りを、峠を襲った奴らに預けるのか」と問い、放火の後は「疑った」と自分から告げる。十年前の隊の砂時計で、旗の知らせが届く速さを測った。
◆ハンネ
小石の壺で雷を数える村の女の子。広場では残る者を小石で数え、家を建てる午後は笛で「退き口」の合図を吹いた。旗の新しい色も一晩で覚える。「ハンネのは、重いの」という一言が、領主に新しい考えを生ませた。
◆ズデンカ
黒羽団の頭。冬を伯の傭兵に追われて生き延び、三十人ほどの手下と峠に戻った。谷の槍にはならず、隊のまま峠の西の見張りと荷の護衛を請け負うと売り込み、イルゼとの値切り合いに勝つ。放火を疑われても、驢馬の蹄の浅さから真犯人を追い詰めて捕らえた。
◆ルドミラ
頬から首にかけて細かな雷紋を持つ陶工。前の村で窯を「雷を呼ぶ窯」と叩き壊され、谷の呼びかけに応じて峠を下りてきた。湖の粘土に段々畑の白い泥を混ぜて窯を築くが、放火で焼かれる。「……二度目だ」と呟いたが、三つ目の窯では白い泥を混ぜた器を一つも割らなかった。
◆ヤネク
金床に雷が落ちてから、鉄に触ると手が震えるようになった鍛冶。来るなり「鉄のない鍛冶場なんぞ」と文句を言ったが、釘一本ない谷の戸口では手が震えなかった。家づくりでは柱の下から「雷木は燃えねえ!」と若者たちを怒鳴り、手を止めさせなかった。
◆アダルベルト
レーゲン伯領の、峠にいちばん近い穀倉の村の村長。伯が日照りを当てて村を救った恩を語り、買い上げ値を下げられても伯の倉に麦を入れ続ける。村ごと谷へ来てほしいと頼むアルノを「穀倉の者は、穀倉で死ぬ」と断ったが、村の若者十四人が黙って谷へ下りてきた。
◆ガスパル
伯に雇われていた傭兵隊長で、湿地で敗れて捕虜になった男。春の選択では真っ先に立ち、谷を去ることを選ぶ。去り際、「冬の午後は落ちねえ」という自分の言葉を取り消し、知っていたのはアルノの帳面だけだと認めた。




