第39話 旗の中継
選り場の火のことを、峠の番小屋が知ったのは、火の手が上がってだいぶ経ってからだった。
「知らせが、峠まで遅れたんです」アルノは領主館の卓に谷の地図を広げた。「火を点けた人は、それで峠を上れた。知らせが先に峠に着いていたら、ボルクさんは、朝いちばんに上ってくる人を止められました」
「知らせってのは、走る奴の足だ」ボルクが言った。「谷の端から峠まで、走って一刻半」
「旗なら、もっと速いです!」
谷には、旗の柱が五本ある。尾根の下と湖の岸と村の外れに立ち、どの柱にも赤い旗と黒い旗が一組ずつ掛かっている。赤は雲が育つ、黒は落ちた。係の子どもたちが旗を上げると、村の者はそれを見て戸口へ入る。旗は今まで、見るための物だった。
「旗から旗へ、知らせを渡します」アルノは地図の上に、谷の東の端から峠まで、点を打っていった。「隣の旗が見える高さに、一本ずつ立てる。一本目が上がったら、それを見た二本目が上げる。二本目を見た三本目が上げる。旗を持って走るより、旗が見える速さのほうが速いので」
「夜は」イルゼがペンで地図を叩いた。「夜は、旗が見えねえぞ」
「火です。旗の代わりに、松明を振ります」
「で、いくら」
「布と棒と、係の子のお給金です!」
「給金って言えば、ハンネが喜ぶと思ってんだろ」
「喜びます!」
「喜ぶよ」戸口から顔を出したハンネが言った。「ハンネ、旗も数える」
* * *
新しい柱は、七日で立った。谷の東の端の岩山から、尾根の下の選り場の焼け跡、湖の岸の舟小屋、村の外れ、段々畑の上の堰と渡って、峠道の二つ目の曲がり角、峠の頂の番小屋まで。柱は、はじめの五本から倍の十本になった。
係には谷の子どもたちと、足の弱い年寄りたちがついた。冬に脛を傷めた樽屋の孫は、杖をついて峠道の曲がり角の柱の下に座った。
色も増えた。赤は雲が育つ、黒は落ちた。白は、人が来る。白と赤を並べたら、火事。夜は松明を、振る回数で分ける。決めたのはアルノだが、どの色が何かを一晩で全部覚えたのはハンネだった。
試しの朝、アルノは谷の東の端の岩山に立った。イルゼは峠の番小屋にいる。ボルクの隣で、帳簿を膝に載せて待っているはずだった。東の端から峠まで、谷はまっすぐに細長く延びて、峠の番小屋は尾根の肩に隠れて見えない。
「上げてください!」
アルノの声に、岩山の係の子が白い旗を振り上げた。風を受けて、布がばさりと鳴った。
アルノは数えた。いち、に、さん。雷を数えるときと同じ速さで、声に出して数えた。尾根の下の柱に、白い旗が上がった。じゅうに。湖の岸の舟小屋に、白。にじゅうご。村の外れに、白。旗が谷を西へ渡っていく。目で追えるのは段々畑の上の堰までで、その先は尾根の肩の向こうへ消えた。
アルノは数え続けた。数えて、数えて、途中で何度か分からなくなって、ハンネの小石のように指を折った。
峠のほうから、白い旗が返ってきた。受けた、の合図だった。今度は西から東へ、旗が一本ずつ谷を戻ってくる。岩山の係の子が、戻ってきた旗を見て、両手を上げた。
「届いた!」
アルノは折った指を見下ろした。走れば一刻半かかる谷を、知らせは半刻で往って戻っていた。
「速い……!」
* * *
峠の番小屋では、イルゼが戸口の段に座って、谷のほうを睨んでいた。隣でボルクが古い砂時計を膝に載せていた。真鍮の枠は黒ずみ、硝子の片側に細いひびが入っている。ボルクは坂の曲がり角の柱から目を離さず、砂が落ちきるたびに黙って引っくり返した。
「それ、いつから持ってんだよ」
「十年前から」
番小屋の壁一面に、刻まれた名前が並んでいる。名前の下の日付は、どれも同じだった。イルゼは帳簿を膝の上で開いたまま、しばらくその壁を見ていた。取り立ての帳簿に並ぶ名前は、払った者と払わなかった者に分かれる。この壁の名前は、分けようがなかった。
「見張りの交代に使った」ボルクが言った。「あいつらが、砂が落ちるまで立っていた」
曲がり角の柱に、白い旗が上がった。ボルクの手が、砂時計の上で止まった。イルゼは帳簿に時刻を書きつけ、書き終えてから、柄にもなく声を上げた。
「来たぞ、坊ちゃん」
聞こえるはずのない谷の東の端へ向かって、そう言っていた。ボルクは何も言わずに、番小屋の旗を上げた。
* * *
その日の昼、番小屋から下りてきたイルゼは、帳簿を開いて一行を見せた。
「峠の上で、あたしが見た時刻。岩山で上げる刻と突き合わせて、ボルクが砂時計で測ってた。行きが、四半刻とちょっと」
「四半刻!」アルノは帳簿を覗き込んだ。「ボルクさん、砂時計を持ってたんですか!?」
「十年前の隊のやつだとよ」イルゼはそれだけ言って、帳簿を閉じた。
アルノは帳簿の数字を指でなぞった。それから、戸口の外へ目を移した。
段々畑の上の堰の柱で、係の子どもが二人、勝手に赤い旗と白い旗を交互に振っていた。それを見た村の外れの柱が、首をかしげながら同じように振り返す。
「あれは何の合図だ」ボルクが言った。
「……決めてないです」アルノは堰の柱を見つめた。係の子どもたちは、まだ振っている。
「領主さまが、また数えてる、って」ハンネが言った。「みんなで決めた」
「勝手に決めないでください!」
イルゼが帳簿で口元を隠した。ボルクは右耳を堰のほうへ向けて、何も言わなかった。
アルノはもう一度、谷の東の端から峠までを目でなぞった。旗は、目で見える速さで渡っていく。目で見える速さは、走るより速い。音は、光より遅い。光ってから音まで数えれば、雷までの距離が分かる。それなら、光そのものは。
「……雷は、光ってから音まで。じゃあ、光は、どれくらいで谷を渡るんでしょう」
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