第38話 雷の中で建つ村
家が、足りなかった。
春のあいだに、谷の人は倍どころでなく増えた。捕虜から残った男たち、雷紋の人々、峠の西から来た若い者たち、峠の上の黒い羽根。領主館の半地下にも、選り場の焼け跡に張った天幕にも、湖の舟小屋にも人が寝ている。
夏が来れば、午後の雷は春より多くなる。天幕の下で雷をやり過ごすのは、この谷では命がけだった。
「朝だけじゃ間に合わねえ」イルゼは帳簿を閉じた。「朝は硝子を掘る。燃えた半分を取り返さなきゃ、期限が来る。家を建てる手が、朝に一つも残らねえ」
「じゃあ、午後に建てましょう!」
半地下の卓を囲んだ全員が、アルノの顔を見た。
「午後は、雷だ」ヤネクが言った。
「はい! だから、午後に建てます」アルノは谷の地図の上に、指で輪を描いた。「建てる場所のまわりに、雷よけの杭を二重に立てます。村の杭と同じで、高くて尖った物に先に落ちます。家の骨組みは雷木で、鉄は一本も使いません。落ちてくる雷は、ほとんど杭が受けます」
「ほとんど、ってのは」ボルクが言った。
「骨組みが高くなると、杭より骨組みのほうに落ちたがる雷が出ます。梁を上げるときが、いちばん危ない」アルノは左の袖をまくった。「その一本だけ、私が先に呼んで、杭に落とします」
イルゼの手が、帳簿の上で止まった。
「ベアタさんは、一日に三本までって言いました。今日は二本で済ませます。最後の一本ぶんは、取っておきます」
「で、その一本の値段は」
「軽い焼けです。ひと晩です」アルノはイルゼの目を見た。「家の屋根と、交換です」
長い沈黙のあとで、ボルクが言った。
「退き口は」
「ハンネさんに、笛を吹いてもらいます。笛が鳴ったら、骨組みから下りて、杭の輪の内側の溝に伏せる。雷が一本落ちたら、また上る」
「……溝は、俺が掘らせる」
* * *
その日、昼を過ぎても、誰も戸口へ逃げ込まなかった。
尾根の上で雲が塔になり、塔の底が墨を含んで暗くなる。湖の岸の平らな草地に、雷木の杭が二重の輪になって立っていた。輪の内側に、家の土台の穴が六つ。穴の縁に雷木の柱が立ち、柱と柱のあいだに、まだ梁は渡っていない。
峠の西から来た若い者たちが、柱の上で麻縄を結んでいる。ヤネクが下から怒鳴り、ルドミラが屋根に載せる芝を切り揃えていた。
アルノは輪のいちばん外、少し高い岩の上に立っていた。袖をまくった左腕を、空へ向けて。
最初の雷が、湖の上に落ちた。
「いち、に、さん、し」
音が来た。遠い。アルノは空から目を離さず、数を頭の中へ積んでいく。次が尾根の肩。その次が、輪の東の杭の先に落ちた。杭の先で白い火が弾け、杭の根元の草が一瞬で黒くなる。柱の上の若い者たちが、身をすくめた。
「杭です! 杭が受けました! そのまま!」
「そのまま、だとよ!」ヤネクが柱の上を見上げて怒鳴った。「手ぇ止めんな! 雷木は燃えねえ!」
雷は続けて、杭の輪に落ちた。落ちるたびに杭の先が白く光り、音が草地の上を転がっていく。柱の上の手は、光るたびに止まり、鳴り終わるとまた動き出した。止まっている時間は、だんだん短くなっていった。
* * *
穀倉の村から来た娘は、柱の上で縄を握ったまま、空を見上げていた。
生まれてから十八年、雷が鳴れば家に入れと言われて育った。伯の掲示に「雷」とあれば、村じゅうが戸を閉めた。その雷が今、自分の頭の上で、手を伸ばせば届きそうなところで鳴っている。杭の先に落ちるたびに、腹の底まで音が響いた。怖い。怖いのに、縄を握った手が、次の結び目を探して動いている。
岩の上の保持者が、両手を振り回して何か叫んでいた。数を叫んでいる。杭に落ちるたびに、嬉しそうに数を叫んでいる。
「……あの人、笑ってる」
隣の柱の男が、縄を引きながら言った。「だから、まだ大丈夫なんだろ」
* * *
梁を上げる番になった。六軒目の家の、いちばん長い梁だった。雷木を継いだ太い梁を、若い者たちが縄で吊り上げていく。梁が柱の頂に近づくにつれて、骨組みの天辺が、杭の先より高くなった。
アルノの左腕が、皮膚の下でちりちりと疼いた。
雲の底の、骨組みの真上あたり。光ってから音までの拍が、鳴るたびに短くなっている。雷が、あそこで育っている。落ちたがっている先は、杭の輪の外側の杭でも、湖でもない。いちばん高いところ。梁を吊っている、縄を握った手の真上。
「ハンネさん!」
笛が鳴った。柱の上の若い者たちが、縄を柱に巻きつけて滑り下り、輪の内側の溝へ飛び込む。梁は宙で揺れたまま、縄に吊られて止まった。
アルノは左手を空へ上げ、指先に火花を灯した。ぱち。
空が答えた。
白い線が、雲の底からアルノの指先へ降りてくる。その途中で、アルノは数えた。いち。拍が距離になる。雷の通り道のどこで折ればいいかが、体の奥で分かる。
線の先を、アルノは指先から輪の西の杭の先へ振った。雷の大半がアルノの体の手前で曲がり、杭へ落ちた。杭の先が白く弾け、草地が一瞬、昼より白くなった。
左腕の内側を、熱いものが薄く撫でていった。それだけだった。
「……一本!」アルノの声に、溝の中から恐る恐る頭が上がった。梁は宙で揺れていた。焦げていない。
「上れ! 今のうちだ!」ボルクの声が飛んだ。
若い者たちが溝から這い出し、柱を上った。梁が一段、また一段と吊り上がっていく。雲の底は、まだ暗い。
左腕が、また疼き始めた。今度は、さっきより強く。雲の底が低く垂れ、骨組みの真上で、光と音の拍が、にい、いち、と縮んでいく。
「ハンネさん、もう一回!」
笛が鳴った。若い者たちが滑り下りる。アルノは火花を灯した。
空が、さっきより太く答えた。
雲の底が割れ、太い雷が枝を広げながら降りてくる。アルノは数えた。いち。枝のそれぞれが、どこへ向かおうとしているかが分かる。アルノはその全部を、両手でまとめて束ねるように、輪の杭の列へ振った。
雷が、割れた。
幹から分かれた枝が、杭の先という先へ次々と跳んでいった。輪の東から西へ、杭が一本ずつ順に白く光る。二重の輪の上を白い火が駆け抜け、ぐるりと一周して、輪の真ん中に立つ骨組みを、光の囲いの中に閉じ込めた。音が来た。草地と湖と尾根が、一度に鳴った。
骨組みは、どこも焦げていなかった。
「今日のいちばん……!」
アルノは岩の上で膝をついていた。叫んだ声が、雷鳴の尻尾に重なった。
「おいおい、今かよ」溝の縁から顔を出したイルゼが、泥だらけの頬で言った。「数える前に、腕を見せろ」
アルノは左腕を持ち上げた。肘の内側から肩へ、赤い枝がひと筋増えていた。痺れはある。指は動く。心臓は、秋の沢の日のようにはつまずかず、いつもの拍を打っていた。舌の奥に、何かの味が残っていた。
「……今日のは、土の味がします!」
「知るか!」
* * *
日が傾く頃、雲が崩れ始めた。
最後の梁が、六軒目の柱の頂に載った。若い者たちが梁の上に跨がって、麻縄で縛り、雷木の楔を打ち込む。楔を打つ木槌の音が、雨の上がった草地にこだました。ルドミラが芝の束を肩に担いで、骨組みの下で待っている。ヤネクは柱の根元に手を当てて、上を見上げていた。
尾根の中腹の岩の上に、白い影が一つ、座ってこちらを見ていた。アルノが目を凝らすと、影は立ち上がり、杭に落ちた雷の跡を惜しむように一度振り返って、尾根の奥へ消えた。
ハンネが岩の上で、小石を一つ、壺へ落とした。からり、と鳴った。
その音を合図にしたように、骨組みの上の若い者たちも、溝の中の男たちも、芝を担いだルドミラも、村の皆が一斉に空を見上げた。
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