第37話 足を読む
その日の午後、アルノは雷を見に出なかった。
領主館の卓に谷の地図を広げ、その上に天気帳と、イルゼの帳簿と、ハンネの小石の壺を並べた。雷は尾根の上で鳴り続けていたが、アルノは一度も窓を見上げなかった。
「今度は、足を読みます」
秋の夜、逃げた二十人の足を読めなかった。読んでいれば、倉は焼かれなかった。アルノは地図の上に指を置き、峠から選り場までの道を、ゆっくりとなぞった。
「火を点けた人は、選り場の場所を知ってました。窯の場所も。夜に来て、夜のうちに帰った。……帰った先は、どこでしょう」
「峠だろ」イルゼが言った。「谷の外へ出る道は、あそこ一本だ」
「はい。でも夜の峠道は、誰も通れません。雷がなくても真っ暗で、大岩の崩れたあとがあります。だから、帰るなら朝です。朝は晴れるので」アルノは天気帳を開いた。「昨日の夕立は、日が落ちる前にやみました。夜中に風が北へ回って、煙は湖のほうへ流れた。峠から見ると、選り場は尾根の肩の陰です。火も煙も、峠の上からは見えなかったはずです」
「つまり」
「つまり火を点けた人は、夜明けに何も知らないふりをして、峠を上れました。誰にも止められずに」
イルゼが帳簿を繰った。指が一つの頁で止まった。番小屋で取っている、峠の案内料の控えだった。晴れた朝の通れる時間を教えて、一人いくら、荷がいくら。イルゼの角ばった字が、日付ごとに並んでいる。
「……いた。三日前に下りてきて、今朝の夜明けに上ってった。蜜蝋売り、一人、驢馬一頭。下りの時も上りの時も、案内料はきっちり払ってる」
「蜜蝋、谷で買った人は?」
イルゼは戸口から顔を出して、村の女たちに訊いて回った。戻ってきた顔が、険しかった。
「一人もいねえ。三日いて、一つも売ってねえ」
戸口の外から、ハンネが顔を出した。後ろに、雷見の旗の係の子どもたちが並んでいる。いちばん西の旗の係の女の子が、ハンネに背中を押されて前へ出た。
「……おととい、夕方。驢馬のおじさんが、選り場はどこかって訊いた。硝子を見たいって。旗のとこから、指さして教えた」女の子の声が震えた。「教えちゃ、だめだった?」
アルノは女の子の前にしゃがんだ。
「だめじゃないです。教えてくれて、ありがとう。今、いちばん大事なことを教えてくれました」
* * *
峠の上では、ズデンカが待っていた。
イルゼの帳簿の話を聞き終えると、ズデンカは番小屋の前の雪解けの泥にしゃがみ込んだ。朝のうちに峠を越えた足跡が、まだ幾筋も残っている。ズデンカは指で、その中の二筋を示した。
「人と、驢馬。これだ」
「どうして分かるんですか!?」
「驢馬の蹄が浅い」ズデンカは蹄の跡の縁を指でなぞった。「荷を積んだ驢馬は、泥にこれくらい沈む。こいつは半分も沈んでない。背中の荷が空だ。蜜蝋売りが、蝋を一つも売らずに、荷だけ空にして帰る。何を下ろした」
「……油」
「人のほうも見ろ。爪先で歩いてる。急いでる奴の足だ」ズデンカは立ち上がり、峠の西の斜面を見下ろした。足跡は街道から逸れて、羊飼いの小屋のある谷筋へ下りていた。「街道を行けば、伯領の関で荷を改められる。だから脇へ逸れた。……昼までに捕まえる」
ズデンカは手下を五人連れて、斜面を駆け下りていった。ボルクはその背中を、番小屋の戸口から黙って見ていた。
昼過ぎ、黒い羽根の列が、縄で縛った男を一人引いて戻ってきた。驢馬の背の革袋からは、空の油壺が二つと、ミルデの銀貨がひと掴み出てきた。男は頼まれただけだと言った。頼んだのが誰かは、組合の人間だとしか言わなかった。
ボルクが番小屋の戸口から出てきて、ズデンカの前に立った。
「疑った」
「知ってる」ズデンカは縄の端を手下に渡した。「あたしも、あんたの立場なら疑う」
それで終わりだった。ボルクは番小屋へ戻り、ズデンカは野営地へ戻った。坂の下では、元傭兵の男たちが、峠から下りてきた黒い羽根を、昨日とは違う顔で見ていた。
* * *
縛られた男は、番小屋の前の泥に座らされていた。アルノはその前に立った。男は顔を上げて、雷紋の腕を見て、すぐに目を伏せた。
「棚が、四十二」アルノは言った。声に、いつもの跳ねるところがなかった。「窯が、一つ。焼くはずだった鉢が、二十と少し。冬じゅう、雪の中で掘った硝子です。村の人が、手を凍らせて掘りました」
男は黙っていた。
「人は、焼けませんでした。それだけ、数えなくて済みました」
イルゼが、アルノの横顔を見た。ボルクが、右耳をアルノのほうへ向けた。アルノは深く息を吸って、吐いた。
「送り返します。ミルデへ。組合の、アンゼルムさんのところへ」
「突き出さねえのか」ボルクが言った。「伯の関へ」
「伯は、組合のことは組合に任せると言うと思います。それに、この人の雇い主は、この人に訊いても答えが出ません」アルノはイルゼを振り返った。「イルゼさん。持たせる物を、お願いします」
イルゼはすでに帳簿の新しい頁を開いていた。ペンが、止まらずに走っていく。焼けた硝子の棚の数。選り場の小屋。窯と、焼くはずだった鉢と壺。夜通し火を消した村の者の手間賃。
書き終えると、一番下に線を引き、その下に大きく数字を書いた。紙を破り、封もせずに、縛られた男の懐へ押し込んだ。
「油代と、窯と、選り場の半分。利息つけて、爺さんに請求だ」
ズデンカが、縛られた男の懐から覗く紙の端を見下ろして、短く笑った。
「山賊より山賊だな」
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