第127話 兄上の杯
兵舎の裏の酒場は、天井が低く、煙で目が痛かった。
兄からの書付は、昼過ぎに鐘楼の小屋の戸の隙間に挟まっていた。日暮れの鐘のあと、兵舎の裏。一人で来い。右に傾いた早口の字だった。
「一人で来い、だとよ」イルゼは酒場の戸口の手前で足を止め、書付をアルノに返した。「あたしは向かいの宿の軒下で待つ。酒代は自分の小遣いから出せよ。谷の帳面には載せねえ」
「飲みません! ……たぶん」
「たぶん、が多いな、今日は」
奥の卓で、マティアスが手を挙げた。緋の外套は脱いで椅子の背に掛け、襟を緩めている。卓の上には杯が二つと、葡萄酒の瓶が一本。瓶はもう半分空いていた。
「座れ。お前の分も頼んである。飲めなきゃ俺が飲む」
アルノは向かいに座った。兄の顔は、叙爵の日より痩せて見えた。蝋燭の火が揺れるたびに、頬の影が動いた。
酒場の客は、ほとんどが緋の外套だった。直轄軍の兵が卓を三つ四つ占め、喪の布を袖に巻いたまま、低い声で歌っていた。王が死んだ夜の歌にしては、拍子が速い。歌の合間に、誰かが摂政殿下、と言って杯を上げ、何人かがそれに倣った。
「谷の連中は元気か」マティアスは歌のほうを見ずに言った。「あの峠番の親父は、まだ人を睨むか」
「ボルクさんは、誰でも睨みます! でも、名前の板を番小屋の壁に戻しました。戦が済んだので」
「名前の板?」
「十年前の部下の方たちの名前です。それと、夏に亡くなった塔守のミロシュさん」
マティアスは杯を口元で止めた。しばらく弟の顔を見て、それから黙って杯を空けた。
「昼は、悪かったな」マティアスはアルノの杯を押し出した。「殿下の後ろで、口は開けん。あの方の後ろにいるってのは、そういうことだ」
「分かってます」
「分かってねえ顔だ」マティアスは自分の杯を一息で空けた。「殿下は、ああいう言い方をする。数えられる奴を先に殺す。冗談に聞こえたか」
「聞こえませんでした」
「なら、いい。本気だからな」
兄は襟元に指を入れ、革紐を引き出した。紐の先に、小指の先ほどの白い粒が下がっている。蝋燭の火を透かして、粒の奥の細い枝が、ほんのかすかに光った。
「あっ!」アルノは卓に身を乗り出した。「首に、下げてくれてるんですか!?」
「懐に入れといたら、三日でなくしかけた」マティアスは粒を指でつまみ、火にかざした。「重さが分からん。軽すぎて、なくしそうだ。だから紐をつけた。近衛の甲冑の下に、こんな物を下げてる奴は他にいねえぞ」
「それ、私の谷のいちばん最初の年のかけらです!」
「知ってる。手紙が来た日に、お前の字で一行だけ書いてあった。最初の年の砂の、とは書いてなかったがな」兄は紐を襟の中へ戻した。「……書いてなくても、分かる」
アルノは杯を両手で持った。一口だけ飲んで、顔をしかめた。兄が笑った。
「アルノ。聞け」マティアスは身を乗り出し、声を落とした。早口がもっと速くなった。「殿下が勝つ。直轄軍は殿下の物だ。王女殿下には帳簿しかない。帳簿で戦はできん。……俺は家を上へやる。ブラウエンの名を、公家の末席に並ぶところまで持っていく。そのためには、勝つ側の、いちばん殿下に近い席にいる」
「はい」
「そこにいれば、お前を拾える」
アルノの手の中で、杯が止まった。
「お前が王女殿下の網でもいい。戦が終わったとき、負けた側の網の主を、勝った側の誰が拾う。俺だ。俺が殿下に頭を下げて、弟の首だけは勘弁してくれと言う。そのための席だ。……俺に任せろ」
「拾われたくありません!」
アルノの声が、酒場の天井にぶつかった。隣の卓の兵たちが振り返った。マティアスは振り返らなかった。
「声がでけえ」
「でかくていいです! 私は拾われるために、王都まで線を引きに来たんじゃありません! 王女殿下の側が負けるって、勝手に決めないでください!」
「勝手じゃねえ。数えりゃ分かる。直轄軍が二万、王女殿下の兵がゼロだ」
「ゼロからでも、数えられます! 谷は最初、四十一人でした!」
「四十一人と直轄軍を一緒にすんな!」
「一緒にしてません! 四十一人のほうが、ずっと強かったです!」
マティアスは口を開けたまま、弟の顔を見た。それから、ぶっと噴き出した。笑い声は早口と同じくらい速くて、止まらなかった。兄は杯を置き、卓に額をつけて肩を揺らした。
「……お前、それ、本気で言ってるだろ」
「本気です!」
「だろうな」マティアスは顔を上げ、目尻を袖で拭った。「ディートリヒ兄上が聞いたら、念のため、って言いながら三日寝込むぞ」
アルノも笑ってしまった。長兄が毛布を三枚押しつけてきた日のことを、二人とも思い出していた。念のため、毛布を三枚。念のため、胃の薬。念のため、雷の数は要らない。
笑いが収まると、兄は瓶を傾けて、自分の杯にだけ注いだ。注ぎながら、襟元に指を当てた。革紐の上から、粒の形を確かめるように。
「アルノ」
「はい」
「数えろって書いてきたな」マティアスは杯を見たまま言った。「……何を数えりゃいい」
アルノは兄の指先を見た。それから、まっすぐ兄の顔を見た。
「光ってから、音が来るまでです。子どもの頃、兄上も聞いてたでしょう!」
読んでいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。




