第126話 三分の二
王女の執務室の卓に、五つの石が並んでいた。
黒い石が二つ。白い石が三つ。シルヴィアは白い石の一つを指先で転がし、窓辺の硝子の大樹の影の中に置いた。
「北のホーエンブルク。西のヴィッテン。この二つは叔父の物です」シルヴィアは黒い石を卓の端へ寄せた。「残りは三つ。東のエルスター、南のメルツ、それにカルステンの老公。古法の三分の二は、五つのうち四つ。三つ全部と、黒い石を一つ」
「黒いのを、一つ……」アルノは身を乗り出して石を覗き込んだ。「ひっくり返すんですか?」
「石は、ひっくり返りません。当主は、ときどき返ります」シルヴィアは白い石を一つずつ指で叩いた。「エルスター公は、ディートリヒ殿の奥方の父君。ただ、公の甥のアロイスが、私の叔父の側にいる。メルツ公は南の港の商いしか見ていない。老公は、王太子殿下の正統を守る方。……三人とも、今朝の控えを懐に入れていました」
「入れてましたね!」
「入れていた、というだけです。まだ、誰も石を動かしていない」シルヴィアは顔を上げた。「男爵。あなたの網を、王家の目と耳にしたい。三つの館に、毎朝、王都と国じゅうの知らせを。叔父より先に」
アルノは白い石と黒い石を見比べた。それから、思ったことをそのまま口にした。
「殿下は、王様になりたいんですか?」
イルゼが帳簿の角でアルノの脛を小突いた。シルヴィアは表情を変えなかった。
「なりたいか、なるか。どちらを訊いています?」
「えっと……なりたいか、です」
「それなら、答えません」シルヴィアは白い石を一つ、自分のほうへ引き寄せた。「なるか、なら答えます。叔父が王になれば、王家の金庫は直轄軍の物になる。組合への借金は、剣で踏み倒される。踏み倒された組合は、麦の値で国じゅうから取り返す。冬に、それを払うのは誰です?」
「……麦を買う人です」
「谷の人も、です」
イルゼが帳簿の上でペンを止めた。
「毎朝の知らせは、売り物だよ。殿下」
「知っています。だから、値を訊いています」
「今は答えねえ」イルゼはペンを耳に挟んだ。「網を誰が持つかで、値が変わる」
シルヴィアは何も言わず、イルゼを見た。それから、黒い石を一つ、指で弾いて卓から落とした。床の上で、石は乾いた音を立てて転がった。
* * *
回廊は、昼でも暗かった。
執務室を出て、議場へ通じる長い石の廊下を半分ほど歩いたところで、前から大きな影が来た。喪の黒い外套。肩幅の広い体。後ろに、十人ほどの供。その中に、緋の外套の近衛が一人混じっていた。
マティアスだった。兄は王弟の右後ろ、半歩下がったところを歩いていた。アルノと目が合うと、兄は一度だけ顎を引いた。それ以上は動かなかった。
「おう、男爵」王弟の声が回廊の天井に跳ね返った。「今朝は面白い物を見せてもらった。片仮名の紙きれ一枚で、公家の当主が三人、俺より先に兄上の死を知っていた」
「……陛下のこと、お悔やみ申し上げます。王弟殿下」
「悔やみは要らん。兄上は長く寝ておられた」王弟は立ち止まり、アルノを見下ろした。「去年の秋、俺はお前に訊いた。この春、叙爵の日にもう一度訊いた。三度目だ」
アルノは王弟の口が次に何を言うか分かっていた。分かっていて、足が動かなかった。
「で、何人殺せる」
回廊の窓から差す光が、王弟の顔の半分だけを照らしていた。
「直轄軍の将の席をやる。谷の網は軍が買い上げる。値はお前の財務官が決めていい。王家に借りている分は全部消す。お前の兄の手柄にもなる」王弟は顎で、後ろのマティアスを示した。「峠で、四千を三度折れる坂で止めたな。あれを平原でやれ。俺が日を選ぶ。お前は落とせ」
イルゼが一歩踏み出しかけた。喉の奥で、売り物じゃねえ、の最初の音が鳴って、止まった。今日のイルゼは、帳簿を胸に抱えたまま動かなかった。答えるのはアルノの番だった。
「殺す数では、選びません」
アルノの声は、思ったより大きく回廊に響いた。
「丘の塔で、ミロシュさんが死にました。王女殿下は、その名前を王家の帳面に書いてくれました。塔守の名前を、です。王弟殿下は、何人、と訊きます。王女殿下は、誰、と訊きます。だから私は」アルノは息を吸った。「私は、王女殿下の網です」
王弟は黙った。
大きな右手が持ち上がった。去年の秋、この回廊で、その手はアルノの左腕を叩いた。この春も叩いた。今、その手はアルノの左の肩の手前で、宙に止まった。止まったまま、しばらく動かなかった。
「網か」王弟は手を下ろした。「網は、張った者のものではない。使った者のものだ。それは、お前もじきに分かる」
「分かりません!」
「分からんなら、それでいい。お前は数を答えなかった。それが答えだ」王弟は笑わなかった。笑わないと、この人の顔はひどく静かだった。「男爵。戦で最初に死ぬのは、数えられる奴だ。数を知っている奴が生きていると、戦が長引く」
「……どういう意味ですか」
「なら、数えられる奴を先に殺す」
王弟は踵を返した。黒い外套が石の床を払い、供の者たちがその後ろに続く。足音が回廊の奥へ遠ざかっていった。
マティアスだけが、一歩遅れた。
兄はアルノの前で足を止め、口を動かしかけ、何も言わずに唇を結んだ。緋の外套の襟元から、細い革紐が一本覗いていた。兄はそれを指で襟の中へ押し込むと、王弟の背中を追って、早足で回廊の奥へ消えていった。
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