第125話 崩御
夜明け前の宮殿は、どこもかしこも冷えていた。
東翼の屋根裏の小屋で、アルノは壁にもたれてうとうとしていた。卓の前ではハンネが膝を抱え、隣で東翼の番に付いた財務の書記が、石筆を握ったまま舟を漕いでいる。王太子の部屋から戻って、まだ二晩目だった。
階段を上がってくる足音で、ハンネが先に顔を上げた。
レオポルトだった。灰色の外套の襟が乱れ、手に一枚の紙を握っている。王家財務の印が押してあった。いつもの平らな顔のまま、レオポルトは紙を卓の上に置き、指でその端を押さえた。
「王家の手紙です。王、王太子、評議会の宛。最優先で」
ハンネが紙を見た。読んで、レオポルトを見上げた。
「……打つ?」
「打ってください。全ての小屋へ。城門が閉まる前に」
ハンネは書記の手から送り手の銅の棒を取り、壺の口に当てた。離す。当てる。離す。指が、行の拍と間と段の拍を刻んでいく。
ヘイカ ホウギョ。
アルノは壁にもたれたまま、動かなかった。
ハンネの手の下で、拍が一つずつ線へ出ていく。いつもなら、アルノの指は勝手に折れる。拍の数を、光と同じように数えてしまう。今は、膝の上の両手が重かった。指は一本も曲がらなかった。
回廊の燭台の下で、老王が咳き込んでいた春の日を思い出した。剣の平が左腕に触れたとき、その剣先が小さく震えていた。
* * *
拍は、宮殿の東翼の屋根から出た。
瓦の上を渡る一本の銅線を、青い火の粒が走っていく。商家の屋根を越え、議場の脇の鐘楼の窓をかすめ、鐘楼の小屋の信手が針の前で跳ね起きる。線は財務の庁舎の煙突の脇を下り、もう一本の線へ移って、城壁の上を越えた。
城門の内側で緋の外套の兵が閂に手を掛けたとき、拍はもう城壁の外の、王家の倉の小屋の針を鳴らしていた。
倉の小屋の夜番が、板を受けて打ち直す。東へ。
王の街道の最初の塔の受け小屋の窓が、暗い畑の中で青く瞬いた。五里先の二つ目の窓が、それに答えて瞬く。三つ目、四つ目。まだ星の残る空の下を、小さな青い光が一つずつ東へ跳んでいく。
ブラウエン領の丘の上では、足に鎖を巻いた塔の小屋の窓が光り、屋敷の二階で誰かが燭台を灯した。ミルデの市の中の小屋では、組合の帳場の若い者が戸を叩かれて飛び起き、外套も着ずに組合長の家へ走り出した。
伯領の境の丘の塔、ミロシュが最後まで打っていた塔の、建て直した小屋の窓が光った。今夜の二人番の片方が、板を握ったまま、もう片方の肩を揺すった。
峠の番小屋で、ボルクが丸椅子から立ち上がった。壁の名前の板の前で、右の耳を針のほうへ向け、拍が終わるまでそこを動かなかった。
峠から北へはハルデンへ、西へは伯の館へ。そして三度折れる坂を下りて、谷へ。
湖の岸の、領主館の脇の受け小屋で、夜番の子が針の前で顔を上げた。ハンネの弟子の、粉屋の次男だった。左手の指が、一本ずつ折れていく。行の拍、間、段の拍。最後の一本が折れて、子どもはその手を開けなくなった。
王都の城門が閉まる音は、その頃になって、ようやく東翼の屋根裏まで届いた。
* * *
ハンネが送り手の棒を壺から離した。
「全部、行った」
それからハンネは、壁際のアルノを振り返った。
「数えなかった」
「……はい」
「いつも、数えるのに。指だけでも」
「今日は、数えません」アルノは膝の上の手を見た。「陛下の拍は、数えたくないんです。数えたら、私、たぶん、いくつだったか覚えてしまうので」
ハンネはしばらくアルノの顔を見ていた。それから何も言わずに、自分の左手の指を一本ずつ開いて、膝の上に置いた。
レオポルトは頷き、紙を畳んで外套の内側にしまった。窓の外で、中庭の松明がいっせいに門のほうへ動いていた。早馬の蹄の音が、門の手前で止まっていた。止められていた。
「男爵」レオポルトが言った。「朝の評議会に、殿下があなたを随員としてお連れになります。議場の、いちばん後ろの壁際です」
アルノは顔を上げた。数えなかった拍のぶんだけ、喉の奥が乾いていた。
「……はい」
* * *
議場は、天井が高すぎた。
五つの椅子が半円に並び、その向こうに空の玉座があった。椅子の一つ一つに、公家の当主が座っている。
北の椅子と西の椅子の当主は、王弟の入ってくる扉のほうへ体を向けていた。東の椅子の当主は腕を組み、南の当主は指輪を回し、いちばん古い椅子の老公は、膝の上に分厚い法の書を載せて目を閉じていた。
アルノは壁際に立ち、イルゼがその隣で帳簿を抱えていた。シルヴィアは玉座の右手の、王家財務の机の前に立っていた。灰青の服の袖を、今日は捲っていなかった。
扉が開いた。
王弟ベルンハルトは、喪の黒い外套を肩にかけて入ってきた。大きな体が議場の真ん中で止まり、声が天井まで跳ね返った。
「評議会の諸卿。今朝、夜明け前に、兄上が亡くなられた」
議場は動かなかった。
「王太子は病で、議場に立てん。今朝も起き上がれなかった。王国は一日も主なしではおれん。ゆえに、王太子が回復されるまで、この私が摂政として国を預かる。直轄軍は、すでに城門を押さえた。王都は静かだ」
「異はない」北の椅子の当主が、間を置かずに言った。「王弟殿下の摂政に、ホーエンブルクは同意する」
「ヴィッテンも」西の当主が続いた。
二つ。王弟は頷き、残りの三つの椅子へ顔を向けた。急かす声は出さなかった。待てば降りてくる、という顔だった。
「……速いな、あの二人」イルゼが帳簿で口元を隠して囁いた。「前の晩から、台詞を覚えてた顔だ」
「イルゼさん、聞こえます」
「聞こえるように言ってんだよ」
いちばん古い椅子の老公が、目を開けた。膝の上の法の書に手を置いたまま、ゆっくりと言った。
「カルステンは、まだ何も申さぬ。古い法の頁が、一つ残っておる」
シルヴィアが机の前から進み出た。机の上の古い書を開き、指で一行を押さえる。
「古法を読み上げます。王に男子の継ぐ者なく、または継ぐ者が務めに堪えざるときは、評議会の三分の二の同意をもって、王の女子がこれを継ぐ」
王弟は姪を見た。笑いもしなかった。
「女子継承の古法か。百年、誰も開かなかった頁だ」
「開かれなかった頁も、法です」シルヴィアは書を閉じなかった。「叔父上。摂政も、評議会の同意で立つものです。どちらにします?」
王弟はシルヴィアから目を離し、五つの椅子を見回した。そこで初めて、王弟の眉が動いた。
東の当主が腕を組んだまま、胸元から一枚の紙を半分出していた。片仮名の控えだった。南の当主の指輪の脇にも、同じ紙があった。老公の法の書の頁の間から、同じ紙の端が覗いていた。
ヘイカ ホウギョ。王家の手紙。評議会の宛。
鐘楼の小屋の信手が夜明け前に書き起こし、当主たちの館へ走って届けた控えだった。王弟が城門を閉じ、早馬を止め、自分の口で告げるまで、王都の誰も知らないはずの一行だった。
「……誰が」王弟の大きな声が、初めて低くなった。「誰が、先に知らせた」
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