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雷鳴の辺境伯〜借金まみれの『雷の谷』に追放された雷オタクの三男、落雷を資源に変えて最強の辺境を築く〜  作者: 雅龍(がりゅう)
第13章 王都の網

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第125話 崩御

 夜明け前の宮殿は、どこもかしこも冷えていた。


 東翼の屋根裏の小屋で、アルノは壁にもたれてうとうとしていた。卓の前ではハンネが膝を抱え、隣で東翼の番に付いた財務の書記が、石筆を握ったまま舟を漕いでいる。王太子の部屋から戻って、まだ二晩目だった。


 階段を上がってくる足音で、ハンネが先に顔を上げた。


 レオポルトだった。灰色の外套の襟が乱れ、手に一枚の紙を握っている。王家財務の印が押してあった。いつもの平らな顔のまま、レオポルトは紙を卓の上に置き、指でその端を押さえた。


「王家の手紙です。王、王太子、評議会の宛。最優先で」


 ハンネが紙を見た。読んで、レオポルトを見上げた。


「……打つ?」


「打ってください。全ての小屋へ。城門が閉まる前に」


 ハンネは書記の手から送り手の銅の棒を取り、壺の口に当てた。離す。当てる。離す。指が、行の拍と間と段の拍を刻んでいく。


 ヘイカ ホウギョ。


 アルノは壁にもたれたまま、動かなかった。


 ハンネの手の下で、拍が一つずつ線へ出ていく。いつもなら、アルノの指は勝手に折れる。拍の数を、光と同じように数えてしまう。今は、膝の上の両手が重かった。指は一本も曲がらなかった。


 回廊の燭台の下で、老王が咳き込んでいた春の日を思い出した。剣の平が左腕に触れたとき、その剣先が小さく震えていた。


     * * *


 拍は、宮殿の東翼の屋根から出た。


 瓦の上を渡る一本の銅線を、青い火の粒が走っていく。商家の屋根を越え、議場の脇の鐘楼の窓をかすめ、鐘楼の小屋の信手が針の前で跳ね起きる。線は財務の庁舎の煙突の脇を下り、もう一本の線へ移って、城壁の上を越えた。


 城門の内側で緋の外套の兵が閂に手を掛けたとき、拍はもう城壁の外の、王家の倉の小屋の針を鳴らしていた。


 倉の小屋の夜番が、板を受けて打ち直す。東へ。


 王の街道の最初の塔の受け小屋の窓が、暗い畑の中で青く瞬いた。五里先の二つ目の窓が、それに答えて瞬く。三つ目、四つ目。まだ星の残る空の下を、小さな青い光が一つずつ東へ跳んでいく。


 ブラウエン領の丘の上では、足に鎖を巻いた塔の小屋の窓が光り、屋敷の二階で誰かが燭台を灯した。ミルデの市の中の小屋では、組合の帳場の若い者が戸を叩かれて飛び起き、外套も着ずに組合長の家へ走り出した。


 伯領の境の丘の塔、ミロシュが最後まで打っていた塔の、建て直した小屋の窓が光った。今夜の二人番の片方が、板を握ったまま、もう片方の肩を揺すった。


 峠の番小屋で、ボルクが丸椅子から立ち上がった。壁の名前の板の前で、右の耳を針のほうへ向け、拍が終わるまでそこを動かなかった。


 峠から北へはハルデンへ、西へは伯の館へ。そして三度折れる坂を下りて、谷へ。


 湖の岸の、領主館の脇の受け小屋で、夜番の子が針の前で顔を上げた。ハンネの弟子の、粉屋の次男だった。左手の指が、一本ずつ折れていく。行の拍、間、段の拍。最後の一本が折れて、子どもはその手を開けなくなった。


 王都の城門が閉まる音は、その頃になって、ようやく東翼の屋根裏まで届いた。


     * * *


 ハンネが送り手の棒を壺から離した。


「全部、行った」


 それからハンネは、壁際のアルノを振り返った。


「数えなかった」


「……はい」


「いつも、数えるのに。指だけでも」


「今日は、数えません」アルノは膝の上の手を見た。「陛下の拍は、数えたくないんです。数えたら、私、たぶん、いくつだったか覚えてしまうので」


 ハンネはしばらくアルノの顔を見ていた。それから何も言わずに、自分の左手の指を一本ずつ開いて、膝の上に置いた。


 レオポルトは頷き、紙を畳んで外套の内側にしまった。窓の外で、中庭の松明がいっせいに門のほうへ動いていた。早馬の蹄の音が、門の手前で止まっていた。止められていた。


「男爵」レオポルトが言った。「朝の評議会に、殿下があなたを随員としてお連れになります。議場の、いちばん後ろの壁際です」


 アルノは顔を上げた。数えなかった拍のぶんだけ、喉の奥が乾いていた。


「……はい」


     * * *


 議場は、天井が高すぎた。


 五つの椅子が半円に並び、その向こうに空の玉座があった。椅子の一つ一つに、公家の当主が座っている。


 北の椅子と西の椅子の当主は、王弟の入ってくる扉のほうへ体を向けていた。東の椅子の当主は腕を組み、南の当主は指輪を回し、いちばん古い椅子の老公は、膝の上に分厚い法の書を載せて目を閉じていた。


 アルノは壁際に立ち、イルゼがその隣で帳簿を抱えていた。シルヴィアは玉座の右手の、王家財務の机の前に立っていた。灰青の服の袖を、今日は捲っていなかった。


 扉が開いた。


 王弟ベルンハルトは、喪の黒い外套を肩にかけて入ってきた。大きな体が議場の真ん中で止まり、声が天井まで跳ね返った。


「評議会の諸卿。今朝、夜明け前に、兄上が亡くなられた」


 議場は動かなかった。


「王太子は病で、議場に立てん。今朝も起き上がれなかった。王国は一日も主なしではおれん。ゆえに、王太子が回復されるまで、この私が摂政として国を預かる。直轄軍は、すでに城門を押さえた。王都は静かだ」


「異はない」北の椅子の当主が、間を置かずに言った。「王弟殿下の摂政に、ホーエンブルクは同意する」


「ヴィッテンも」西の当主が続いた。


 二つ。王弟は頷き、残りの三つの椅子へ顔を向けた。急かす声は出さなかった。待てば降りてくる、という顔だった。


「……速いな、あの二人」イルゼが帳簿で口元を隠して囁いた。「前の晩から、台詞を覚えてた顔だ」


「イルゼさん、聞こえます」


「聞こえるように言ってんだよ」


 いちばん古い椅子の老公が、目を開けた。膝の上の法の書に手を置いたまま、ゆっくりと言った。


「カルステンは、まだ何も申さぬ。古い法の頁が、一つ残っておる」


 シルヴィアが机の前から進み出た。机の上の古い書を開き、指で一行を押さえる。


「古法を読み上げます。王に男子の継ぐ者なく、または継ぐ者が務めに堪えざるときは、評議会の三分の二の同意をもって、王の女子がこれを継ぐ」


 王弟は姪を見た。笑いもしなかった。


「女子継承の古法か。百年、誰も開かなかった頁だ」


「開かれなかった頁も、法です」シルヴィアは書を閉じなかった。「叔父上。摂政も、評議会の同意で立つものです。どちらにします?」


 王弟はシルヴィアから目を離し、五つの椅子を見回した。そこで初めて、王弟の眉が動いた。


 東の当主が腕を組んだまま、胸元から一枚の紙を半分出していた。片仮名の控えだった。南の当主の指輪の脇にも、同じ紙があった。老公の法の書の頁の間から、同じ紙の端が覗いていた。


 ヘイカ ホウギョ。王家の手紙。評議会の宛。


 鐘楼の小屋の信手が夜明け前に書き起こし、当主たちの館へ走って届けた控えだった。王弟が城門を閉じ、早馬を止め、自分の口で告げるまで、王都の誰も知らないはずの一行だった。


「……誰が」王弟の大きな声が、初めて低くなった。「誰が、先に知らせた」


読んでいただきありがとうございます!

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