第124話 王太子の窓
迎えは、夜更けに鐘楼の小屋の戸を叩いた。
燭台を持った年寄りの侍従だった。王太子殿下がお呼びです、とだけ言い、アルノが外套を羽織るのを待たずに石段を下りはじめた。イルゼが帳簿を抱えて立ち上がりかけると、侍従は振り返って首を横に振った。
「お一人で、と」
「おいおい。夜中に男爵を一人で呼びつけて、何の用だよ」
「存じません。私は、燭台の係です」
宮殿の東翼の回廊は長く、燭台の火が届くのは足元の三枚の敷石だけだった。中庭に面した窓の外で、松明がいくつも揺れていた。緋の外套が、その火の下を行き来している。
王太子の部屋は、回廊のいちばん奥にあった。
寝台が窓のほうを向いていた。厚いカーテンは開け放たれ、薄い紗の一枚だけが窓に掛かっている。寝台の上の男は、毛布を胸まで引き上げて、枕を三つ重ねた背にもたれていた。
叙爵の日に見た、あの青い顔だった。灯りの下で見ると、頬はもっと薄かった。
「ザーラ男爵。夜分に、すまない」声は細く、よく通った。「座ってくれ。立っていられると、私が疲れる」
アルノは寝台の脇の椅子に浅く腰かけた。両手を膝に置いて、背筋を伸ばす。
「王太子殿下。お呼びでしょうか」
「呼んだ。理由は、くだらない」ルートヴィヒは窓のほうを顎で示した。「妹から聞いた。雷を数えると怖くない、と。谷の岩の上で、君の隣で数えたそうだね。十一、近いのね、と言ったら、君がひどく嬉しそうな顔をした、と」
「殿下が、そんなことまで!?」
「妹は何でも書き留める。私のことも、たぶん帳面に書いてある」王太子は小さく笑い、咳を一つした。「私は、雷が怖い。子どもの頃から。父上の病が重くなってから、夜の音が全部怖くなった。窓の外の松明の爆ぜる音まで、怖い」
アルノは窓の外を見た。王都の夜空は晴れていて、星が多かった。雲はどこにもない。
「殿下。王都には、雷がありません」
「知っている。だから、数え方を習うには不便だ」王太子は目だけをこちらへ向けた。「谷では、毎日落ちると聞いた」
「毎日です! お昼を過ぎると、湖のほうから雲が育ってきて、尾根の穂先が光りはじめて、それから——」アルノは自分の声が回廊まで響いているのに気づいて、口を押さえた。「……ごめんなさい。夜でした」
「続けてくれていい。私の部屋で、誰かが大きな声を出すのは久しぶりだ」
そのとき、南の地平が、ぼうっと白んだ。
紗の向こうで、遠い空の底が一瞬だけ明るくなり、すぐに暗くなった。音はなかった。季節外れの、ずっと南の雲の中の光だった。
「光りました!」アルノは椅子から腰を浮かせた。「殿下、今の、見えましたか!?」
「……見えた」
「数えましょう! いち、に、さん……」
王太子の指が、毛布の上で折れはじめた。細い、骨の浮いた指だった。アルノの声に半拍遅れて、一本ずつ。し、ご、ろく。アルノは声を落とさず、ゆっくり数えた。じゅう。じゅうご。にじゅう。
音は来なかった。
「来ないな」ルートヴィヒは指を開いた。「数え間違えたか」
「間違えてません! 来ないのは、遠いからです。音は、光よりずっと遅いんです。数えるほど、雷は遠い。二十数えても来ない雷は、ここまで来ません」
「ここまで、来ない」
「来ません。王都の上には」
ルートヴィヒは窓を見たまま、しばらく黙っていた。南の地平が、また白んだ。今度は、王太子のほうが先に指を折りはじめた。
「いち。に。さん」
アルノはその声に合わせて、口の中でだけ数えた。王太子の声はかすれていて、途中で一度咳に切れた。それでも指は止まらなかった。にじゅうを越えて、王太子は指を開いた。
「……来ない」
「来ません」
「怖くないな」ルートヴィヒは目を閉じた。「数えているあいだは、ほかのことを考えずに済む。妹の言ったとおりだ」
アルノは膝の上で、自分の左手を握った。感覚のない薬指と小指が、握った拳の中で遅れて曲がった。
「ルートヴィヒさ……殿下」
「今、さん、と付けたね」
「付けてません! ……付けました。ごめんなさい」
王太子は目を開け、初めて声を立てて笑った。笑って、咳き込んで、侍従が水を差し出すのを手で止めた。
「いい。さん、のほうがいい」咳が収まると、ルートヴィヒは言った。「男爵。叔父上は強い。妹は賢い。私は、どちらでもない。評議会の当主たちは、それをよく知っている。父上が亡くなれば、私の名は、どちらかの手で使われる」
「殿下……」
「使われるのは、構わない。王太子は、そういう物だ」ルートヴィヒは毛布の端を指でつまんだ。「ただ、どちらの手で使われるのかを、私は自分で選べない。それが、少し悔しい」
アルノは言葉を探した。谷の雷のことも、網のことも、今夜は口にしたくなかった。
「殿下。また、光ったら」アルノは窓のほうへ顎を向けた。「数えてください。私がいなくても」
ルートヴィヒは答えなかった。
南の地平は、それきり光らなかった。王太子は窓の外の暗い中庭へ目を移した。松明が三つ、四つ、宮殿の門のほうから東翼の下へ近づいてきて、窓の真下で止まった。緋の外套の肩が、火の色に照っていた。
王太子は、それをいつまでも黙って見ていた。
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