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雷鳴の辺境伯〜借金まみれの『雷の谷』に追放された雷オタクの三男、落雷を資源に変えて最強の辺境を築く〜  作者: 雅龍(がりゅう)
第13章 王都の網

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第124話 王太子の窓

 迎えは、夜更けに鐘楼の小屋の戸を叩いた。


 燭台を持った年寄りの侍従だった。王太子殿下がお呼びです、とだけ言い、アルノが外套を羽織るのを待たずに石段を下りはじめた。イルゼが帳簿を抱えて立ち上がりかけると、侍従は振り返って首を横に振った。


「お一人で、と」


「おいおい。夜中に男爵を一人で呼びつけて、何の用だよ」


「存じません。私は、燭台の係です」


 宮殿の東翼の回廊は長く、燭台の火が届くのは足元の三枚の敷石だけだった。中庭に面した窓の外で、松明がいくつも揺れていた。緋の外套が、その火の下を行き来している。


 王太子の部屋は、回廊のいちばん奥にあった。


 寝台が窓のほうを向いていた。厚いカーテンは開け放たれ、薄い紗の一枚だけが窓に掛かっている。寝台の上の男は、毛布を胸まで引き上げて、枕を三つ重ねた背にもたれていた。


 叙爵の日に見た、あの青い顔だった。灯りの下で見ると、頬はもっと薄かった。


「ザーラ男爵。夜分に、すまない」声は細く、よく通った。「座ってくれ。立っていられると、私が疲れる」


 アルノは寝台の脇の椅子に浅く腰かけた。両手を膝に置いて、背筋を伸ばす。


「王太子殿下。お呼びでしょうか」


「呼んだ。理由は、くだらない」ルートヴィヒは窓のほうを顎で示した。「妹から聞いた。雷を数えると怖くない、と。谷の岩の上で、君の隣で数えたそうだね。十一、近いのね、と言ったら、君がひどく嬉しそうな顔をした、と」


「殿下が、そんなことまで!?」


「妹は何でも書き留める。私のことも、たぶん帳面に書いてある」王太子は小さく笑い、咳を一つした。「私は、雷が怖い。子どもの頃から。父上の病が重くなってから、夜の音が全部怖くなった。窓の外の松明の爆ぜる音まで、怖い」


 アルノは窓の外を見た。王都の夜空は晴れていて、星が多かった。雲はどこにもない。


「殿下。王都には、雷がありません」


「知っている。だから、数え方を習うには不便だ」王太子は目だけをこちらへ向けた。「谷では、毎日落ちると聞いた」


「毎日です! お昼を過ぎると、湖のほうから雲が育ってきて、尾根の穂先が光りはじめて、それから——」アルノは自分の声が回廊まで響いているのに気づいて、口を押さえた。「……ごめんなさい。夜でした」


「続けてくれていい。私の部屋で、誰かが大きな声を出すのは久しぶりだ」


 そのとき、南の地平が、ぼうっと白んだ。


 紗の向こうで、遠い空の底が一瞬だけ明るくなり、すぐに暗くなった。音はなかった。季節外れの、ずっと南の雲の中の光だった。


「光りました!」アルノは椅子から腰を浮かせた。「殿下、今の、見えましたか!?」


「……見えた」


「数えましょう! いち、に、さん……」


 王太子の指が、毛布の上で折れはじめた。細い、骨の浮いた指だった。アルノの声に半拍遅れて、一本ずつ。し、ご、ろく。アルノは声を落とさず、ゆっくり数えた。じゅう。じゅうご。にじゅう。


 音は来なかった。


「来ないな」ルートヴィヒは指を開いた。「数え間違えたか」


「間違えてません! 来ないのは、遠いからです。音は、光よりずっと遅いんです。数えるほど、雷は遠い。二十数えても来ない雷は、ここまで来ません」


「ここまで、来ない」


「来ません。王都の上には」


 ルートヴィヒは窓を見たまま、しばらく黙っていた。南の地平が、また白んだ。今度は、王太子のほうが先に指を折りはじめた。


「いち。に。さん」


 アルノはその声に合わせて、口の中でだけ数えた。王太子の声はかすれていて、途中で一度咳に切れた。それでも指は止まらなかった。にじゅうを越えて、王太子は指を開いた。


「……来ない」


「来ません」


「怖くないな」ルートヴィヒは目を閉じた。「数えているあいだは、ほかのことを考えずに済む。妹の言ったとおりだ」


 アルノは膝の上で、自分の左手を握った。感覚のない薬指と小指が、握った拳の中で遅れて曲がった。


「ルートヴィヒさ……殿下」


「今、さん、と付けたね」


「付けてません! ……付けました。ごめんなさい」


 王太子は目を開け、初めて声を立てて笑った。笑って、咳き込んで、侍従が水を差し出すのを手で止めた。


「いい。さん、のほうがいい」咳が収まると、ルートヴィヒは言った。「男爵。叔父上は強い。妹は賢い。私は、どちらでもない。評議会の当主たちは、それをよく知っている。父上が亡くなれば、私の名は、どちらかの手で使われる」


「殿下……」


「使われるのは、構わない。王太子は、そういう物だ」ルートヴィヒは毛布の端を指でつまんだ。「ただ、どちらの手で使われるのかを、私は自分で選べない。それが、少し悔しい」


 アルノは言葉を探した。谷の雷のことも、網のことも、今夜は口にしたくなかった。


「殿下。また、光ったら」アルノは窓のほうへ顎を向けた。「数えてください。私がいなくても」


 ルートヴィヒは答えなかった。


 南の地平は、それきり光らなかった。王太子は窓の外の暗い中庭へ目を移した。松明が三つ、四つ、宮殿の門のほうから東翼の下へ近づいてきて、窓の真下で止まった。緋の外套の肩が、火の色に照っていた。


 王太子は、それをいつまでも黙って見ていた。


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