第123話 城壁の内側
王都の空には、雲が一つもなかった。
峠を出て十日。王の街道の塔を一つずつ数えながら西へ下ってくるあいだ、空はどんどん高く、薄く、青くなっていった。城壁の外の倉の小屋に荷を下ろした朝、アルノは小屋の戸口に立ったまま、半刻も上を見ていた。
「坊ちゃん。口」
「……開いてました?」
「開いてた。晴れてるとあんた、ほんとに役に立たねえな」イルゼは帳簿で肩を叩いた。「ほら、来たぞ。財務の書記官殿だ」
レオポルトは灰色の外套で、城壁の通用門から一人で出てきた。手に革の筒を一本。挨拶の代わりに、筒から図面を抜いて倉の卓に広げた。
王都の地図だった。城壁の内側に、赤いインクで三つの丸。宮殿の東翼の屋根。評議会の議場の脇に立つ、古い鐘楼。王家財務の庁舎の地下。丸と丸を細い線がつなぎ、線は城壁を越えて、この倉の小屋まで延びている。
「柱は立てられません」レオポルトは言った。「城壁の内側で地面に穴を掘るには、宮殿の許しが要ります。許しを出すのは、宮殿の営繕を預かる方。今は王弟殿下の御用人です」
「じゃあ、どうやって線を通すんですか」
「屋根です」レオポルトは赤い線を指でなぞった。「屋根の上は、屋根の持ち主の物。王家財務が持っている屋根と、評議会が持っている屋根と、王女殿下が個人でお買いになった商家の屋根が、ここからここまで、途切れずに続いています」
「王女殿下が、お買いに!?」
「一昨日に」
イルゼが図面の端に指を置いた。「商家の屋根。いくらだ」
レオポルトは筒から紙をもう一枚出した。イルゼはそれを読み、読み終えて、紙を卓に伏せた。
「王都の地べたは、一坪で谷の麦が一冬ぶん買える」イルゼは低い声で言った。「屋根の上は、その半分。半分でも、谷の金庫の中身の半分近くが、屋根の上に消える」
「消えません! 線になります!」
「線になった金は、売れねえんだよ」イルゼは紙を表に返し、指で数を一つずつ押さえた。それから帳簿を開いて、一行書いた。「……払う。払うけど、あんたは今日から一日一回、屋根の上の線を見て回れ。払った分を、目で覚えとけ」
アルノは何度も頷いた。それから、図面を筒へ戻しているレオポルトのほうへ向き直った。
「レオポルトさん。陛下は、その後」
レオポルトの手が止まった。筒の蓋を閉めるのに、いつもより一拍長くかかった。
「お目覚めの時間が、日ごとに短くなっています」レオポルトは図面の赤い丸の一つ、宮殿の東翼を指で押さえた。「殿下はそれより先に、ここを打てるようにしたいとお考えです。急いで、と書かれたのは、そういうことです」
「……間に合いますか」
「間に合わせる、と、間に合う、は違います」レオポルトは平らな声で言った。「殿下の口癖です。私は、間に合わせるほうの係です」
* * *
線は七日で、瓦屋根の上を渡った。
谷から連れてきた線張りの若い者たちが、王都の屋根職人と並んで、瓦の継ぎ目に雷木の楔を差し、碍子の輪を嵌めていく。銅線は宮殿の東翼の屋根から商家の屋根へ、商家の屋根から議場の鐘楼へ、鐘楼から財務の庁舎の煙突の脇を下って、地下の小部屋の窓へ入った。
アルノは屋根の上を見回りながら、何度も空を見上げた。雲がない。風もない。昼になっても、尾根の穂先に雲が育っていく、あの時刻が来ない。腹の奥がそわそわして落ち着かない。
「……雲、どこにもないです」
気がつくと、屋根の棟に腰を下ろして、天気帳に顔を埋めていた。
石畳の下から、視線が上がってきた。
緋の外套の兵が、三人。商家の軒下に立ち止まって、屋根の上の線を見上げていた。王弟の直轄軍の色だった。一人が何か言い、もう一人が笑い、三人目だけが笑わずに、線の行く先を目で追った。鐘楼のほうへ。
「イルゼさん」アルノは屋根の上から小声で呼んだ。「下の人たち、線を数えてます」
「放っとけ。見られて困る線なら、屋根に張るな」
「困りません! でも、あの人、碍子の数まで数えてます」
イルゼは軒下を見下ろし、しばらく黙っていた。それから帳簿に、日付と、緋の外套、とだけ書いた。
* * *
鐘楼の小屋は、古い鐘の吊られた階の、一つ下にあった。
石の壁に、卓が一つ。窓が一つ。窓から議場の屋根と、その向こうの宮殿の東翼が見える。ハンネは卓の前に、レオポルトが財務から出した若い書記を座らせ、指の折り方をもう一度見せた。
「行の拍。間。段の拍。間は、四分の三」
「四分の三……」
「数えない。指で覚える」
日が傾き、王都の屋根が赤くなった頃、宮殿の東翼の小屋から最初の一通が来る手筈だった。アルノは窓辺に立ち、両手を握りしめていた。
針が跳んだ。
青い火花が、硝子の先から石の卓へ、小さく一つ。続いて、もう一つ。ハンネの指が折れていく。書記が慌ててその真似をし、ハンネの指より半拍遅れた。
「キュウデン トウヨク。……キコエルカ」
「届きました!」アルノは窓枠を掴んだ。「ハンネさん、届きました! 王都の中で、拍が!」
ハンネは返事をしなかった。針から目を離さず、耳を窓のほうへ傾けていた。窓の下、鐘楼の石段の踊り場で、靴の音が一度だけ止まった気がした。
「……届いた」ハンネは小さな声で言った。「けど、誰かが、下で聞いてる」
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