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雷鳴の辺境伯〜借金まみれの『雷の谷』に追放された雷オタクの三男、落雷を資源に変えて最強の辺境を築く〜  作者: 雅龍(がりゅう)
第13章 王都の網

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第122話 朝の値

 王都へ発つ朝、峠の番小屋の前に、見慣れない馬がつながれていた。


 谷の馬ではなかった。鞍の房飾りがそれぞれ違い、一頭は青、一頭は緑、一頭は褪せた赤。荷を積んだ騾馬の脇でハンネが鼻をつまんだ。


「香水。全員」


 小屋の中では、男たちが卓を囲んで立っていた。誰も座っていない。峠の西の、男爵の家の家令たちだった。北の家、川沿いの家、丘の家。どの家も、北風の十日には連合の側にいた。


「ザーラ男爵。朝早くに失礼を」川沿いの家の家令が帽子を胸に当てた。いちばん年嵩で、いちばん腰が低い。「本日は、三家から揃って、お願いに上がりました」


「お願いですか!?」アルノは荷を下ろして目を丸くした。「えっと、峠のことなら、もう伯爵さんと協定が——」


「峠ではございません」丘の家の家令が言った。「知らせです」


 イルゼが帳簿を卓に置き、壁際の丸椅子に腰を下ろした。脚を組み、ペンを耳に挟む。それだけで、小屋の中の空気がイルゼのほうへ傾いた。


「話しな。王都行きの荷が冷える」


 川沿いの家令が言葉を選びながら話した。戦の翌朝、三家は連合の手形を握ったまま、それぞれの館で知らせを待っていた。組合の金庫が閉まったと聞いたのは、閉まってから二日後。家の早馬がミルデに着いたときには、手形はもう紙になっていた。


「ミルデの商人たちは、峠の勝ち負けを、その日のうちに知っておりました」家令は声を落とした。「この小屋の、あの針で」


 卓の端で、硝子の針が青く跳ねた。夜番の信手が板に石筆を走らせる。家令たちの目が、揃ってそちらへ吸い寄せられた。


「あれは、何と」丘の家の家令が訊いた。


 ハンネが荷を放り出して卓へ寄り、信手の肩越しに板を覗いた。指を二つ三つ折って、顔も上げずに言う。


「ミルデ。夜明けの挨拶。麦は昨日と同じ。塩が、ちょっと上がった」


「……今朝の、ミルデの塩が」


「今朝の。まだ市も開いてない」


 丘の家の家令は懐の時計を出して見た。蓋の内側に家の紋が彫ってあり、針は日の出の半刻前を指していた。ミルデの市が開くのは日の出だ。開く前の市の塩の値が、もう峠の小屋の卓の上にある。家令は時計の蓋を閉じ、針と、十二の子の横顔を交互に見た。


「すごいでしょう!?」アルノは身を乗り出した。「ハンネさんは、谷でいちばん速いんです! 王都にも教えに行くんです、今日から!」


「坊ちゃん、売り込むのはあたしの仕事だ」


「つまり、速い知らせを買いたい」イルゼが言った。


「左様です」


「いいよ。売る」イルゼはペンを耳から取った。「毎朝一通。ミルデと王都の、麦と塩と銅の値。夜明けに市が立つ前の値を、日の出までにあんたらの館の近くの小屋へ届ける。あんたらの館の者が、小屋まで取りに来な」


「毎朝、ですか」


「毎朝の値だよ」


「……朝の値!」アルノが手を打った。「いい名前です! 朝の値!」


「名前つけんな。名前がつくと値が上がるんだよ」イルゼは帳簿に一行書き、三人の前へ向けた。「年契約。一年で、この額。前払い」


 川沿いの家令と丘の家令は、額を見て顔を見合わせ、それから黙って頷いた。二人が署名し、それぞれの家の封蝋を溶かして押す。青い蝋と、緑の蝋。イルゼは蝋が冷えるのを待たずに帳簿を引き寄せ、額の行の横に、小さな丸を二つ書いた。


 北の家の家令だけが、帳簿の上の額をじっと見ていた。三人の中でいちばん若く、外套の袖がいちばん擦り切れている。


「我が家は、連合に騎士を出した」若い家令は額から目を上げなかった。「戻らなかった者がいる。馬は半分。払った金は、組合の金庫の中で紙になった。……その上で、この額か」


「その上で、この額だ」


「谷の勝ちを売る相手に、負けた家を選ぶのか」


「選んでねえ。あんたらが来たんだ」イルゼは表情を変えなかった。「負けた家ほど、明日の値が要る。麦を売る日を一日間違えたら、今年の冬は越せねえ。それを知ってるから、あんたは香水をつけて峠まで来たんだろ」


 若い家令の頬が赤くなった。アルノが何か言おうとして身を乗り出すと、イルゼが帳簿の角でその膝を押さえた。


「……戻らなかった方は」アルノは押さえられたまま言った。「峠の、どこで」


「坂の三つ目だ」家令は短く言った。「名前を言う気はない」


「はい」アルノは頷き、それ以上訊かなかった。


 家令は長いあいだ黙っていた。針がまた跳ね、ミルデの挨拶が終わり、信手が板を拭いた。それから家令はペンを取り、帳簿に名を書いた。蝋を溶かし、家の印を押す。褪せた赤い封蝋が、卓の上で青と緑の隣に並んだ。


 ボルクが戸口の脇の丸椅子で、右の耳を卓のほうへ向けていた。壁の名前の板の前に、香水の匂いが残っていた。ハンネが鼻をつまんだまま、窓の板戸を一枚押し開けた。峠の朝の冷たい風が入ってきて、三色の封蝋の上を撫でていった。


 家令たちは外套を羽織り、順に戸口を出た。最後に出ようとした北の家の家令が、敷居の上で振り返った。


「……安くならんのか」


 イルゼは帳簿を閉じ、紐を巻いた。


「なる。来年、あんたの家が残ってたらな」


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