第121話 紙の返事
朝の卓に、書きかけの紙が五枚並んでいた。どれも一行目で止まっている。
兄上へ。お手紙、読みました。そこまで書くと、ペンが動かなくなる。
幕僚に入られたこと、おめでとうございます、と書いた紙は、書いた端から丸めた。めでたいのかどうか、アルノには分からなかった。お気をつけて、と書いた紙も丸めた。何に気をつけろと言えばいいのか、それも分からない。
「六枚目か」イルゼが戸口に立っていた。帳簿を小脇に抱え、湯気の立つ椀を二つ持っている。「紙代は谷の帳面で持ってやる。早馬代は持たねえぞ」
「分かってます」アルノは椀を受け取り、丸めた紙を脇へ寄せた。「……イルゼさん。兄上に、何て書けばいいんでしょう」
「知るか。あんたの兄貴だろ」
「兄上は、俺に任せろって書いてきました。任せたら、私は何を任せたことになるんですか?」
イルゼは椀をすすり、答えなかった。
アルノは天気帳を引き寄せ、谷に着いた年の頁を開いた。左手の利かなかった頃の、震えた字が並んでいる。綴じ目のところから、小指の先ほどのかけらが転がり出た。
雷硝子だった。一年目の夏、尾根の麓の白い砂から七つ枝の硝子を掘り出した日に、同じ輪の底から出てきた小さな一つ。売り物にするには小さすぎて、捨てるには惜しくて、頁の間に挟んだまま忘れていた。
窓の光にかざすと、白く濁った肌の奥に、髪の毛ほどの細い枝が一本走っている。
「それ、売り物にならねえやつだな」
「なりません! だから、ずっと私のです」アルノはかけらを手のひらに載せて、しばらく見ていた。それから新しい紙を一枚取り、ペンを浸した。
兄上も、光ったら数えてください。
一行だけ書いて、ペンを置いた。かけらを紙の真ん中に置き、四つに畳んで包み、封をする。
「それだけかよ」
「それだけです。兄上なら、分かります」
イルゼは鼻を鳴らし、椀を置いて帳簿を開いた。「で、早馬代。王都まで、峠の替え馬で四日。いくら出す」
アルノは懐から小遣いの革袋を出し、卓の上で逆さにした。銀貨が転がり、銅貨が転がり、一枚が卓の縁から落ちかけたのを、イルゼが指一本で止めた。
「いち、に、さん……」
「雷みたいに数えんな」
「……し、ご。足りますか!?」
「二枚足りねえ」イルゼは自分の財布から銀貨を二枚出し、山の上に置いた。それから帳簿に一行書いた。「貸しだ。利息は一割五分」
「イルゼさんの金庫からは、貸さないって言いました!」
「金庫からは貸さねえ。財布からだ」
* * *
板は、藁に包まれて蔵の奥にあった。
ボルクは藁をほどかずに板を肩に担ぎ、三度折れる坂を黙って上っていった。アルノは封をした手紙を懐に入れて、その後ろをついていく。峠の頂の番小屋の前で、夜通し走ってきた早馬の乗り手が、替え馬の腹帯を締めていた。
アルノが手紙を渡すと、乗り手は封の厚みを指で確かめ、懐の奥へしまった。「近衛の、マティアス様へ。確かに」
番小屋の中は、壁の一面だけが白っぽかった。十年分の煙で黒ずんだ板壁に、板を外した跡が四角く残っている。
ボルクは藁をほどき、名前の並んだ板を元の場所へ当てた。釘は使わない。壁と柱の隙間に木の楔を差し込み、拳の腹で一つずつ打ち込んでいく。乾いた音が、狭い小屋に四度鳴った。
いちばん下の行に、まだ刻みの白い名前があった。ミロシュ。
「戻すんですね」
「戦は済んだ」ボルクは楔の頭を親指でなぞった。「済んだら、ここだ」
ボルクはそれ以上言わず、戸口の脇の丸椅子に腰を下ろした。右の耳を、壁のほうへ向けていた。
* * *
午後の雷は、日ごとに細くなっていた。
湖の北の長い小屋の前に、ヨアヒムの三型樽が二つ据えてあった。王都へ持っていくなら、満ちた樽が要る。けれどこの十日、誘雷塔の頭に落ちた雷はなかった。秋の終わりの雲は低く散らばって、尾根の穂先を細い枝で撫でていくだけだ。
「一本だけだよ」ベアタが樽の脇に腰かけ、アルノの右手首を指で押さえた。「秋の終わりの雷は、細いぶん冷えが早い。呼んだら、すぐ樽の芯へ流しな」
「はい!」
尾根の西の肩で、雲の底が厚く垂れた。この秋、あんなに低く垂れた雲は初めてだった。アルノは樽の芯の銅に左手を置き、右手の指を空へ上げた。
光った。
尾根の真ん中に、太い一本が立った。枝が雲の底を下から照らし上げ、湖の面が白く跳ねる。
「いち、に、さん、し——今日のいちばん!」
「呼べって言ったんだよ、見とれろとは言ってない」
「あっ」アルノは慌てて指先に火花を灯した。ぱち、と鳴る。雲の底がもう一度光り、熱い一本が指から肘、肩を抜けて、樽の芯へ落ちていった。銅の箍が一度だけ低く鳴った。
舌の奥に、からからに乾いた味が残った。
「……乾いてます。秋の終わりの味です」
「軽いね」ベアタは手首から指を離した。「今年の分は、これでおしまいにしな」
アルノは樽の栓に手を当てたまま、長いあいだ西の空を見ていた。尾根の向こう、峠の向こう、そのずっと先に王都がある。雷の落ちない、晴れた土地が。
夕方、受け小屋の前でイルゼが帳簿を開いて待っていた。
「決めたか」
「決めました。王都の中まで、引きに行きます」
「ゆうべも訊いたけどな」イルゼはペンの尻で帳簿を叩いた。「王都の地べたは、一坪いくらだと思ってんだ」
「分かりません! だから、数えに行きます!」
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