第120話 夜の拍
秋の夜は、雷がなかった。
尾根の上には星が出ていた。北風の十日が過ぎてから、谷の午後の雷は日ごとに細くなり、夜になれば空はすっかり晴れる。受け小屋の窓の外は暗く、硝子の針の先だけが、ときどき青く光った。
アルノは受け小屋の卓で、伯の手帳の写しを読んでいた。細かい字で、三十年分の北風と雨と雷が並んでいる。頁をめくるたびに、アルノは声にならない声を上げた。
「……三十年前の今日、峠に雹」
「読み上げんな」針の前の丸椅子で、ハンネが膝を抱えていた。「夜番の邪魔」
「だって、雹ですよ! 秋の雹!」
「賭ける? 今年も降るか」
「降りません! ……たぶん」
ハンネは鼻を鳴らした。アルノは写しを脇へ寄せ、自分の天気帳を開いた。
北風の十日の頁の下に、新しい一行を書き足す。塔の知らせを並べれば、雨の列の来る日が分かる。書いてから、しばらく考えて、その下にもう一行。峠に網あり、と伯爵さんが書いた。
「それ、伯爵の字でしょ」ハンネが首を伸ばして覗いた。「真似して書いてる」
「写してるんです! いい一行は、写すんです!」
夜更けに、針が跳んだ。
ハンネが丸椅子から身を起こした。左手の指が折れていく。行の拍、間、段の拍。
「オウト」
アルノは写しを閉じた。
王都の城壁の外の、王家の倉の小屋からだった。夜の拍は、昼より澄んで届く。ハンネの指が折れ、石筆が板の上を走った。
「……ヘイカ」指が一度止まり、また折れた。「タオレル」
受け小屋の中で、誰も口を開かなかった。針の先の青い光が消え、窓の外の星だけが残った。
アルノは板の上の四文字を見ていた。謁見の間の玉座で、老王が咳き込んでいた春の日を思い出した。王太子の青い顔と、腕を組んで見ていた王弟の大きな体。回廊で左腕を叩いた、あの手。
「倒れた、って」アルノは板から目を離さずに言った。「亡くなった、じゃないんですよね」
「拍は、そう打ってる」ハンネが言った。「タオレル。それだけ」
針がまた跳んだ。
今度は、長い拍の列だった。ハンネの指が速くなり、石筆が板を埋め、板が足りなくなって、ハンネはもう一枚を引き寄せた。
「オウト。……ダイイチ、オウジョデンカ」
王女の一通だった。整った、細い、速い字が、拍の間から聞こえてくるようだった。
谷の網を、王都の中まで。城壁の内側に、宮殿の中に、評議会の議場の脇に。急いで。……どちらにします?
アルノは板の字を指でなぞった。王女が「急いで」と書いてくるのを、アルノは初めて見た。
「王都の、中まで」
「城壁の中に柱を立てるのか」いつの間にか、戸口にイルゼが立っていた。帳簿を抱え、寝間着の上に外套を羽織っている。「王都の地べたは、一坪いくらすると思ってんだ」
「イルゼさん、起きてたんですか」
「針の音で起きた。隣の小屋まで聞こえんだよ、ここの拍は」イルゼは板を覗き込み、四文字の上で目を止めた。「……倒れた、か」
「はい」アルノは板の上の王女の一通を、イルゼのほうへ向けた。「どちらにします、って書いてあります。でも、選ばせる気、ないですよね。これ」
「ねえな」イルゼは板を読み終えて、帳簿を抱え直した。「選ばせる気はねえ。こっちが選んだことにさせる気だ。……あの王女様の、いちばん高くつく一行だよ」
蹄の音が、坂の上から下りてきた。
夜の峠を越えてきた早馬だった。領主館の前で馬が止まり、しばらくして、槍の若い者が受け小屋へ走ってきた。封をした手紙を一通、握っていた。
「王都から。早馬で。……拍じゃなくて、紙で」
封蝋は、近衛の印だった。宛名は、ザーラ男爵アルノ。早口の兄の字が、紙の上で右へ傾いて走っていた。
アルノは封を切り、灯りの下で読んだ。
王弟殿下の幕僚に入った。峠の戦を見て、殿下がお決めになった。お前の敵の側の、いちばん近い席だ。拍で送らなかったのは、王家の小屋で読まれたくなかったからだ。俺に任せろ。……お前は、数えてろ。
アルノは手紙を畳んだ。畳んで、もう一度開いて、最後の一行を読んで、また畳んだ。イルゼは何も言わなかった。戸口の柱にもたれたまま、帳簿を胸に抱えていた。
「……返事、打つか」しばらくして、イルゼが言った。「王都の小屋まで、今なら半刻もかからねえ」
「拍では打ちません」アルノは手紙を懐にしまった。「兄上が、紙で来たので。私も、紙で書きます。明日の朝に」
「早馬代は、あんたの小遣いからだぞ」
「はい」
針が、また光った。
ハンネが指を折った。アルノはその隣に丸椅子を引き寄せて座り、自分の左手を針の前に出した。感覚のない薬指と小指を、ハンネの指と並べて、拍に合わせて折っていく。二つの手が、暗い受け小屋の中で、同じ速さで数を刻んだ。
拍は、王都の小屋の信手の、夜番の挨拶だった。異常なし。次の一通まで待機。
針の光が消えた。窓の外で、星が一つ、尾根の向こうへ流れた。
「……ハンネさん」アルノは暗い針の先を見たまま言った。「次の一通、何て来ると思いますか」
ハンネは膝を抱え直し、針から目を離さずに言った。
「賭ける?」
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【第12章「鉄喰い峠」のあらすじと登場人物】(第111〜120話)
■あらすじ
評議会の名で四千の諸侯連合が峠へ迫るが、雷信の網は敵の名簿も各地の空も先に谷へ運んだ。イルゼは谷の稼ぎをアルノの読みに賭けて守りを固め、北風の十日の三日目、読みどおり来た雨の中でアルノは塔から引いた雷で連合を退ける。伯は網を認め、組合は市を開き、イルゼは自分の金庫を持つが、王都からは王が倒れたとの拍が届く。
■登場人物
◆アルノ・ブラウエン
ザーラの男爵。各地の小屋が正午に打つ空の一通を並べ、雨の列が塔から塔へ東へ歩いてくることを見つけた。晴れた二日は樽の雷で持ちこたえ、雨の三日目、塔に落ちた雷を線で引き下ろして七本を三十ずつに分ける。「あとの三本は、心臓のために取っておきます」と自ら止めた。
◆イルゼ
谷の財務官。「あんたの読みに、谷ごと賭ける」と今年の稼ぎを全部蔵に注ぎ込んだ。休戦の天幕では控えの紙一枚でアロイスを黙らせ、伯を雷信の客にする。組合長から二年越しの一割を受け取り、谷とは帳面を分けた自分の金庫を持った。
◆ボルク
峠の守りの長。番小屋の壁から名前の板を外し、燃やされないよう谷へ下ろしてから峠を退いた。二日目は丸太を転がして連合の列を止め、「伯の帳面に、丸太の本数でも書かせろ」と言う。伯の兵が退くための西の下り坂は、一度も塞がなかった。
◆ハンネ
十二歳になった信手頭で、指は去年の倍速い。四千の名簿も、アルノの兄からの私信も、雨の列が正午にミルデへ来るという知らせも、まず彼女の板の上で字になった。戦の後の夜、王都から届いた「ヘイカ タオレル」を受けたのも彼女だった。
◆ズデンカ
黒羽団の頭で、谷の騎兵と斥候の長。北の尾根の古道から連合の荷駄を襲い、騾馬四十の綱を切り、麦を林ごと焼いた。負傷した三人が縫われるのを、戸口の柱にもたれて黙って見届ける。退いていくガスパルの捨て台詞には、いつもの「覚えておく」で応えた。
◆ベアタ
谷の医師。黒羽団の三人を縫い終えてから、アルノの腕と脈を診た。樽の雷は小分けだから一晩で引けば足し算にならない、引かないうちに呼べば足し算だと念を押す。戦の翌朝は、アルノより先に連合の若い兵の脚を診ていた。
◆シルヴィア
第二王女。「直轄軍は叔父の物です。守るのはあなたです」と、助けないという一行をいちばん短く打ってきた。王が倒れた夜には、谷の網を王都の城壁の中まで「急いで」と求める。末尾の「どちらにします?」に、アルノもイルゼも選ばせる気のない問いを読み取った。
◆ウルリヒ・レーゲン伯
連合を率いて峠に来た伯爵。板を敷き、鎖を垂らし、三歩ずつ離れて、去年の負け方を研究し尽くして峠の頂を取った。だが三十年の手帳にない雨と鎖を選ばない雷に退き、「記録にない、網だ」と認める。村の死者十一人の名は自分で書くと言い、手帳の写しを差し出した。
◆アンゼルム・ラッセル
ミルデの組合長。手形を持つ者が金庫に押し寄せると換金を止め、傭兵の払いを断った。戦の後は自らの足で谷へ下り、雷壺と雷信を市に入れる決めと、イルゼの一割を利息つきで差し出す。ミロシュの名の板は「見れば、私の秤が狂います」と見なかった。
◆マティアス
アルノの兄で近衛騎士。王弟の見届け役として連合の陣に入り、「お前の敵の側でな」と私信を打ってきた。撃たない弟を、何かを数えて待っているときの顔だと見抜く。戦の後には、王弟の幕僚に入ったと拍でなく紙の手紙で知らせてきた。




