第119話 イルゼの金庫
受け小屋の隣に、小屋がもう一つ建った。窓が一つ、戸が一つ。中には卓と椅子が二つと、壁に据えつけた棚だけ。棚の上には、ミルデ、ハルデン、王都の受け小屋から届く控えの束が、日付ごとに紐で括って並べてあった。戸の上の板には、イルゼの字で、為替と貸しの取次、と書いてある。
「看板、もっと大きくしましょう!」アルノは戸の前で両手を広げた。「イルゼさんの、最初のお店ですよ!?」
「店じゃねえ。取次所だ」イルゼは看板を見上げもせずに、卓の上に帳簿を開いた。「谷の金庫とは、帳面を分ける。谷の金は谷の帳面。ここで動く金は、ここの帳面。混ぜたら、あたしが自分を取り立てることになる」
「分けるんですね」
「分けるんだよ。財務官が自分の商売を谷の金庫でやったら、それは横領っていうんだ」
受け小屋の戸口から、ハンネが首を出した。看板を見上げ、小屋の中の空の棚を見て、イルゼの顔を見た。
「賭ける? 今日、客が来るか」
「賭けねえ。信手頭が財務官の商売で賭けんな」
「来ないほうに、銅貨三枚」ハンネは指を三本立てた。
「来るほうに、坊ちゃんが五枚賭けるってよ」
「えっ、賭けてません!」アルノが両手を振った。誰も聞いていなかった。
最初の客は、昼過ぎに来た。峠を下りてきたのは、アダルベルトだった。伯の領地の、穀倉の村の村長。去年の春、谷への移住を断った男は、帽子を手に持ったまま、小屋の戸口で足を止めた。
「峠の上の小屋で、ここのことを聞いた」アダルベルトは言った。「……種麦の話だ」
イルゼは椅子を指さした。アダルベルトは座らなかった。
「今年の秋、村の若い者が、伯の兵に取られた。峠で、あんたたちと戦った」アダルベルトはアルノを見なかった。「帰ってきたのは、刈り入れが半分済んだあとだ。残りの麦は、雨で畑に寝た。来年の種麦が、足りない」
「伯爵さんには」とアルノが訊いた。
「伯は、死んだ十一人の葬式を出してくれた。それで精一杯だ」
アルノは黙った。天幕で伯がなぞっていた手帳の字を、思い出していた。
イルゼは帳簿を一枚めくり、新しい頁の頭に村の名を書いた。インクが乾かないうちに、ペンが次の行へ移った。
「種麦は、ミルデの市で、雷信の相場で買う。組合の早馬の値より安い日を選んで、あたしが買い付けておく。村へは、峠の騾馬で運ぶ」イルゼはペンを走らせた。「払いは、来年の秋。刈り入れの麦で。利息は一割」
「……一割」アダルベルトはやっと椅子に座った。「組合の金貸しは、二割取る」
「組合は、あんたの村の空を知らねえからな。あたしは知ってる」イルゼは控えの束を顎で指した。「雨の列が何日に来るか、塔が教えてくれる。刈り入れに失敗しにくい村には、安く貸せる」
アダルベルトは証文に名を書き、帽子をかぶって立ち上がった。戸口で振り返り、初めてアルノを見た。
「ミロシュの母親が、来年、麦が実ったら、谷の塔を見に来たいと言っている」
「……はい。お待ちしてます」アルノは深く頭を下げた。
アダルベルトが坂を上っていくのを、アルノは戸口で見送った。それから小屋の中へ振り返った。
「一割って、谷が王家から借りてるのより安いです」
「王家は、谷の空を知らねえからな」イルゼは証文の墨を吹いて乾かしていた。「空が読める村は、取りっぱぐれねえ。取りっぱぐれねえ客には、安く貸す。取立屋の、いちばん最初に習う勘定だ」
受け小屋の戸口で、ハンネが銅貨を三枚、指で弾いてアルノの手のひらに落とした。「客、来た」と、それだけ言った。
* * *
日が傾いてから、アルノは小屋に戻ってきた。両腕で、雷木の箱を抱えていた。
鉄の釘を一本も使わず、木の楔で組んだ箱だった。蓋には、焼き物の芯を仕込んだ木の錠。一年前、領主館の卓に置いた谷の金庫と、同じ形をしていた。
「ヤネクさんが削って、ルドミラさんが錠を焼いてくれました」アルノは箱を卓の上に置き、鍵を差し出した。「夏から、頼んでたんです」
イルゼは鍵を見て、箱を見て、アルノを見た。
「……谷の金じゃねえだろうな」イルゼの目が細くなった。
「私のお小遣いです! 男爵の給金から、毎月ちょっとずつ!」
「おいおい。男爵が財務官に小遣いを申告すんな」イルゼは額を押さえた。
鍵を受け取り、指先で重さを確かめる。それから帳簿の紐をほどいた。紐には、谷の金庫の鍵がもう結んであった。その隣に、新しい鍵を結ぶ。二つの鍵が、一本の紐の先で触れ合って、木の乾いた音を立てた。
「言いましたよね。いつか、イルゼさんのも、って」
「……言ってたな。一年前に」
イルゼは紐を胸元にしまい、箱の蓋を開けた。中は空っぽだった。イルゼは帳簿から、アダルベルトの証文を一枚抜いて、箱の底に置いた。
「最初の一枚だ」イルゼは短く言った。証文の端を、指で撫でた。
「金貨じゃないんですね」
「貸す側の金庫の最初は、証文なんだよ」イルゼは蓋を閉め、錠を下ろした。「金は出ていく。証文が残る。来年、麦になって返ってくる」
アルノは箱の前にしゃがみ込み、蓋の木目を指でなぞった。それから、ぱっと顔を上げた。
「イルゼさん! 私も、借りられますか!? イルゼさんの金庫から!」
「何に使う」イルゼは帳簿から目を上げなかった。ペンも止めなかった。
「新しい塔です! 王都の中まで線を引くなら、柱が——」
「谷の金で引け。帳面を混ぜんな」
「じゃあ、利息は、いくらですか!?」
イルゼは帳簿を閉じた。紐の先で、二つの鍵が揺れた。
「あんたには貸さねえ」イルゼは窓の外を見た。「……一割五分」
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