第118話 秤と雷信
組合長が谷へ来たのは、峠の戦から七日目の午後だった。
アンゼルム・ラッセルは馬車を峠の頂に置いて、三度折れる坂を自分の足で下りてきた。上等な外套の裾が、坂の泥で汚れていた。二つ目の曲がり角で立ち止まり、焼けて割れた板の山と、その先の岩壁に這う細い銅線を、長いあいだ眺めていた。
「組合長が、自分の足で?」イルゼが領主館の戸口で目を細めた。「谷の坂を?」
「組合長さん! 大丈夫です、雷は落ちてませんよ! 今日は晴れです!」アルノは坂の下まで駆けていって、両手を振った。
「知ってますよ、男爵。今朝、峠の小屋で、谷の空を買いました」アンゼルムは笑った。「銀五十で。ミルデで待っていたら、うちの早馬で四日遅れの空です」
アンゼルムは領主館へ入る前に、壺置き場の前で足を止めた。棚に並んだ硝子芯の壺が、昼の光の中でも青く灯っている。その向こうの湖の岸には受け小屋が二つ並び、窓の中で硝子の針が拍を打っていた。
「去年の秋、うちの広間の秤に、この壺を一つ載せました」アンゼルムは壺の肌を指で弾いた。「重さは量れた。値は量れなかった。……イルゼ、あなたが辞めた日の帳簿、まだ持っていますか」
「持ってるよ。あんたの字の返済印が、頁の縁に並んでる」
「では、今日の分も、そこに並べてください」
領主館の卓に、アンゼルムは二つの物を並べた。
一つは、組合の決めの写しだった。組合の者は、谷の雷壺を借りてよい、買ってよい。雷信の小屋を、ミルデの市の中に置いてよい。組合の者も、その小屋で手紙を打ってよい。
もう一つは、革袋だった。秤と麦束の封蝋が押してあった。
「財務官殿の、取立ての一割です」アンゼルムは革袋をイルゼの前へ押し出した。「二年分の利息をつけて。一割五分で計算しました。この谷の相場に合わせて」
イルゼは革袋を見た。手を伸ばさずに、腕を組んだ。二年前、商会の窓口に座っていた頃と同じ組み方だった。
「……なんで今なんだよ」
「相場が変わったからです」アンゼルムは卓の上で指を組んだ。「峠の戦のあった日の夕方には、ミルデの広場で谷の勝ちを知らない者はいませんでした。うちの早馬が着く、丸二日前にね。連合の手形を持った者たちが、組合の金庫の前に並びました。私は金庫を閉めた。閉めなければ、組合が潰れた」
「それで、傭兵の払いが止まったんですね」
「止めたのは私ですよ、男爵。あなたの網が、止めさせた」アンゼルムは笑みを崩さなかった。「速い知らせを持たない商人は、これからは金庫の前で並ぶ側になる。組合の者に、それをさせるわけにはいきません」
イルゼは革袋を取り上げ、封蝋を割らずに重さを確かめた。それから、帳簿の貸しの頁を開いて、二年前の一行に線を引いた。
「受け取った」
「ただし」アンゼルムは決めの写しの最後の一行を指で叩いた。「ミルデの麦の秤は、まだうちのです。雷壺も雷信も市に入れます。けれど、麦の値を量る秤だけは、組合が持ちます」
「秤……」アルノは繰り返した。
「相場というものはね、男爵。速さで動いて、秤で決まるんですよ」
「秤なんて、雷信の相場が来たら、要らなくなりませんか!?」
「なりません」アンゼルムは楽しそうに言った。「知らせが速くなるほど、人は最後に確かなものを欲しがる。麦の袋を載せて、針が止まる。その目盛りを読む者が、値を決める。男爵、あなたの網は速い。けれど、麦の重さは運べない」
イルゼが鼻を鳴らした。言い返さなかった。
アルノは写しの最後の一行を見つめていた。それから、顔を上げた。
「組合長さん。一つ、いいですか」
「どうぞ」
「夏に、丘の塔で、ミロシュさんが亡くなりました」アルノの声は低かった。「組合長さんは、塔を止めろとは言った、人を殺せとは言っていない、って手紙に書きました」
「書きました」
「峠の番小屋の壁の板が、いま谷の蔵に置いてあります。いちばん下の新しい行が、ミロシュさんです。帰りに、見ていってください」
アンゼルムの笑みが、ほんのわずかに止まった。
「見ません」アンゼルムは静かに言った。「見れば、私の秤が狂います。私は秤を狂わせないことで、ミルデの三千の家を食わせている。……男爵。あなたの帳面にその名があるなら、それで足ります。私の帳面には、別の数が書いてある」
アルノは拳を握ったまま、黙っていた。言い返す言葉は、いくつも喉まで来ていた。ミロシュが最後まで打っていた拍のこと。途中で止まった針のこと。数えようとして、数えられなかった夜のこと。どれを言っても、この人の秤の針は動かない。それが分かって、アルノは唇を噛んだ。
「……私は、見てほしかったです」
「ええ」アンゼルムは頷いた。「それも、覚えておきます。男爵の願いを一つ、断った、と」
アンゼルムは立ち上がり、外套の泥を払わずに戸口へ向かった。そこで一度、振り返った。卓の上の革袋と、イルゼの帳簿と、窓の外の尾根に立つ誘雷塔を、順に見た。
「相場というものはね……速いほうへ寄っていくものです」
イルゼは帳簿から顔を上げなかった。
「知ってる。あたしが教わった」
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