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雷鳴の辺境伯〜借金まみれの『雷の谷』に追放された雷オタクの三男、落雷を資源に変えて最強の辺境を築く〜  作者: 雅龍(がりゅう)
第12章 鉄喰い峠

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第117話 黙る客

 夜明け前、峠の西の下り坂を、傭兵の隊が下りていった。


 見張りの岩の上から、ズデンカがそれを見ていた。松明もつけず、太鼓も鳴らさず、濡れた坂を黙って下りていく五百。先頭の大柄な男が、坂の途中で一度だけ振り返り、岩の上の黒い羽根に向かって片手を上げた。


「払いが止まった」ガスパルの声が、濡れた岩壁に跳ねて上ってきた。「ミルデの組合の手形が、昨日の夕方から換えてもらえねえとさ。契約は、払いのある日までだ」


「覚えておく」ズデンカが言った。


「あの坊やに言っとけ。谷のガキでも知ってる、の続きは見た」ガスパルは口ひげをしごいた。「……雨の日の峠には、二度と来ねえ」


     * * *


 朝になると、アルノは坂を上った。


 三度折れる坂のあちこちに、濡れて割れた板が散らばっていた。二つ目の角の直線には、連合の兵がまだ何十人も座り込んでいた。脚が痺れて立てない者、雨の中で一晩を明かして震えている者。谷の槍の者たちが、その一人ずつに水を配っていた。


「立てない人は、谷の荷車で峠の上まで運んでください」アルノは言った。「去年と同じです」


「去年より多いぞ」ボルクが言った。


「去年より、荷車も多いです」


 坂の脇で、ベアタが連合の若い兵の脚を診ていた。


「あんたの腕は、あとで診る。先にこっちだ」顔は上げなかった。


 アルノは頷き、座り込んだ兵たちの間を歩いた。誰もアルノの顔を知らなかった。雷を呼んだ男爵が、濡れた外套で水桶を運んでいるのを、兵たちは不思議そうに見上げていた。


     * * *


 休戦の天幕は、谷へ下りる坂の下に張られた。去年の秋と、同じ場所だった。


 伯は卓の向こうで立ち上がり、アルノが座るのを待ってから座った。卓の上に、伯の手帳が開かれていた。アルノも天気帳を開いて置いた。二冊の帳面が、去年と同じように並んだ。違うのは、アルノの左腕が吊られていないことと、卓の端にもう一つ、受け小屋の控えの束が置かれていることだった。


 伯の後ろに、アロイスが立っていた。指輪の手を剣の柄に置き、天幕の中を見回している。その隣に、緋の外套のマティアスがいた。アルノと目が合うと、兄は小さく片目をつぶった。


「条件は、財務官から申し上げます」アルノが言った。


 イルゼが帳簿を開いた。


「峠は男爵領。評議会の預かりは取り下げ。麦は、伯が去年の秋に戻した値のまま、この先も。それから」イルゼは帳簿から顔を上げた。「伯の領地に、雷信の小屋を置かせてもらう。伯の手紙も、伯の領民の手紙も、ミルデの商人と同じ値で運ぶ。客になってもらう」


「客、ですか」伯は穏やかに繰り返した。


「待て」アロイスが足を踏み出した。「評議会の名で集まった軍が、男爵風情の財務官に条件を——」


 イルゼは返事をしなかった。受け小屋の控えの束から一枚を抜き、卓の上をアロイスのほうへ滑らせた。


 ハンネの角ばった字だった。ミルデ、昨夕。組合、連合の手形の換金を止める。傭兵の払い、止まる。


 アロイスは紙を見下ろした。指輪の指が、剣の柄の上で動かなくなった。


「今朝、傭兵の隊は西へ下りました」アルノが言った。「アロイスさんの八百の払いも、組合の手形でしたよね」


 アロイスは何か言おうとして、唇を閉じた。紙から目を上げず、そのまま半歩下がった。天幕の中で、その靴の音だけがした。


 伯は、紙を見なかった。見るまでもない、という顔だった。


「条件を、呑みます」伯は言った。「峠も、麦の値も、小屋も。私の領地の者は、速い手紙が好きになるでしょう。記録によれば、人は一度速いものを知ると、遅いものに戻りません」


「伯爵さん」


「何でしょう」


「伯爵さんの兵で、亡くなった人は」


 伯は手帳の頁をめくった。


「十一人です。坂の上で、濡れた板の上に倒れて、起きなかった者が」伯は字を指でなぞった。「全員、私の村の者です」


 アルノの声から、弾みが消えた。


「……お名前を、教えてください。私の帳面に、書きます」


「お断りします」伯の声は変わらなかった。「私の村の者の名は、私が書きます。あなたは、あなたの谷の者の名を書きなさい」


 アルノは膝の上で拳を握った。感覚のない二本の指が、拳の中で滑った。


「……はい」


 伯は懐から、紐で綴じた紙の束を出して卓に置いた。手帳の写しだった。細かい字で、何十年分の北風と、雨と、雷の日が並んでいる。


「記録の交換を」伯は言った。「あなたの帳面の、網の頁と。……次は、同じ側で記録をつけたいものです」


 アルノは写しの束を両手で受け取った。紙の厚みが、腕にずしりと来た。


「これ、全部ですか!? 三十年ぶん、全部!?」


「敵の帳面に目を輝かせんな」イルゼが脇から言った。「……いや、もう敵じゃねえのか。どっちにしろ輝かせんな」


 最後の頁をめくると、余白に、昨夜書き足された新しい一行があった。雨で滲んだ字だった。峠に網あり。


 伯は手袋をはめ、立ち上がった。頭は、最後まで下げなかった。天幕の入口の布を自分の手で上げて、外へ出ていく。


 マティアスが、アルノに向かって一礼した。近衛が男爵に向ける、型どおりの礼だった。それから踵を返し、伯の後を追って出ていった。


読んでいただきありがとうございます!

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