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雷鳴の辺境伯〜借金まみれの『雷の谷』に追放された雷オタクの三男、落雷を資源に変えて最強の辺境を築く〜  作者: 雅龍(がりゅう)
第12章 鉄喰い峠

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第116話 峠の雷

 戦の三度目の朝、受け小屋の針が跳んだ。


 夜明けの最初の拍だった。ハンネは寝台代わりの藁から跳ね起きて丸椅子に飛びつき、左手の指を折った。行の拍、間、段の拍。石筆が板を走る。


「ミルデ」ハンネは叫んだ。「ナンセイノ、アメノレツ。ミルデ、ショウゴ」


 アルノは戸口に立っていた。夜のうちから、そこに立っていた。


「南西の雨の列、ミルデ正午……」


 雨の列が、正午にミルデの上に来る。ミルデから峠までは、この夏の紙の上ではいつも半日足らずだった。


 頬に当たる風が、変わった。


 吹き続けた北風が、明け方の一刻のうちに弱まり、止んだ。坂の上の旗が、だらりと下がった。


「……止まった」アルノは空を見上げた。南西の尾根の上に、まだ何も見えない。「イルゼさん、風が止まりました!」


「見りゃ分かる」イルゼは帳簿を抱えて戸口に来た。目の下に、三晩分の影があった。「で、何刻だ」


「昼過ぎです。昼過ぎに、峠の上に来ます」


     * * *


 三つ目の曲がり角の下の岩壁のくぼみまで、ボルクとイルゼがついてきた。二人はくぼみの脇の岩陰にしゃがんだ。


「退き口は」ボルクが言った。


「くぼみの裏の、沢です」アルノは線の端の銅を見ていた。「それから、伯爵さんたちのは、西の下り坂です。塞がないでください」


「塞いでない。一度もな」


「で、あんた」イルゼが帳簿を外套の下に押し込んだ。「何本呼ぶ」


「数えながら決めます」


「決めてから数えろ」


「……十本までです。ベアタさんが、そう言いました」


「十本までって言う奴は、十本呼ぶ顔してんだよ」


「呼びません!」アルノは振り返った。「呼びません。……イルゼさん、上から数えててください。私が何本目か、分からなくなったら」


 イルゼは返事をしなかった。岩の上へ這い上がり、坂の見える場所に腹ばいになった。


     * * *


 正午を過ぎたとき、南西の尾根の上に、灰色の壁が立ち上がった。


 壁は横に長く、端が見えなかった。尾根を越え、峠の西の平地の上へ、音もなく広がってくる。壁の下は白く煙っていた。雨だった。


 峠の頂で、伯は手帳を開いたまま、南西の空を見ていた。


 北風の十日に雨は来ない。三十年の手帳に、そう書いてある。北風の吹き出してから三度の朝は、どの年も晴れた。例外は一度もない。


 雨の壁が、平地の陣の火を順に消しながら近づいてくる。


「全軍に、板の上から降りるなと伝えろ」伯は手帳を閉じた。声は乱れなかった。「濡れた土を踏むな。塔の鎖を確かめろ。雷は塔に落ちる。塔に落ちた雷は、鎖を伝って土へ逃げる」


     * * *


 三つ目の曲がり角の下、岩壁のくぼみに、アルノは立っていた。


 目の前の壁を、細い銅線が這い下りてきて、くぼみの中で終わっていた。線の端の銅が、雨の匂いの中で冷たく光っている。


 雨が来た。


 最初の一粒が頬を打ち、次の瞬間、坂の全部が音を立てて濡れた。岩壁を水が流れ落ち、三度折れる坂の上を、泥の混じった水が川のように下っていく。坂の上に敷かれた乾いた板が、見る間に黒く濡れていった。


 雲の底が、峠の上に下りてきた。灰から紫へ。空気が甘く、焦げたように匂い始める。左腕の雷紋が、肩から指先まで皮膚の下で目を覚ました。


 光った。雲の中で、一度。


「いち、に、さん、し……」


 音が来た。近い。


 アルノは左手を上げた。指先に、火花を一粒灯す。ぱち。それから、その指で線の端の銅に触れた。


 峠の頂で、塔の頭が白く光った。


 空から落ちた雷が、塔の銅の頭を打った。鎖が待っていた。塔の脚から土へ垂れ、雷を逃がす道を開けて。


 雷は、鎖を選ばなかった。


 塔の頭から岩棚へ、岩棚から岩壁へ、碍子に留められた細い線の上を、白い光が走り下りてくる。鉄に触れた人を、雷は好む。線の先に、火花の主が指を当てて待っていた。


 線を伝ってくる重さが指先に届く前に、アルノは数えた。塔の頭が、自分の指先だった。


 いち、に、さん、し、ご、ろく——。


 塔の頭で、一本の雷が割れた。


 硝子の大樹だった。白い幹が塔の頭でほどけ、三十の青い枝になって、雨の空いっぱいに広がった。枝の先が、三度折れる坂の上へ降りていく。一つ目の角へ十。二つ目の角へ十。その間の、雨に濡れた坂の直線へ十。


 濡れた坂に落ちた枝から、光が水の上を這い出した。


 雨水の流れを、青い網が駆け下りていく。濡れた板の上を、泥の上を、盾の鎖の垂れた足元を。上から来る雷のために垂らした鎖は、足の下を這う光には何の役にも立たなかった。一つ目の角で盾が傾き、二つ目の角で槍が倒れ、直線の坂の上で、並んで立っていた膝が端から順に折れた。


 音が来た。空を裂く音と、濡れた岩を叩く音が重なって、峠の岩壁の間で何度も跳ね返った。


「今日のいちばん……!」


 岩壁のくぼみで、アルノは叫んでいた。雨が口に入った。舌の奥に、冷たくて、泥の混じった、澄んだ味が広がった。


「……雨の味がします!」


「おいおい、男爵様……」岩の上に伏せた槍の若い者が、呆れた声を出した。


 雲がまた光った。


「いち、に!」


 二本目。塔の頭で、また大樹が開いた。枝は二つ目の角の下の直線へ。起き上がりかけた列の足元を、青い網がもう一度走った。


「さん! し!」


 三本目。四本目。一つ目の角の上の、板を並べ直していた列へ。坂の上に溜まった雨水へ。


「おいおい……」


「坊ちゃん!」岩の上から、イルゼの声が雨を割って降ってきた。「今ので何本目だ!」


「よん! です!」


「あと、いくつ呼ぶ気だ!」


「まだ、決めてません!」


「決めろって言ったろうが!」


 五本目。六本目。枝のどれもが、倒れた者の脇を避け、まだ立っている者の足元を選んだ。アルノは枝の先を数えていた。三十。三十。雷が来るたびに、三十。


 七本目の大樹が、塔の頭で開いた。


 誰も「おいおい」とは言わなかった。


     * * *


 峠の頂で、伯は塔を見上げていた。


「伯、鎖が……」副官が塔の脚を指さした。「鎖は、何ともありません。雷が、鎖を通っていません」


「見れば分かる」


 鎖は無傷のまま、雨に濡れて光っている。塔の頭で割れた光は、東の岩壁の細い線を伝って、谷のほうへ下りていった。線の先に、何があるのか。


 坂のあちこちから、崩れた列の声が上がってきた。一つ目の角も、二つ目の角も、盾の列が端から崩れている。アロイスの八百が、指示を待たずに坂を駆け上がってくる。


「退却だ」伯は言った。「列を立てて退け。負傷者を背負え。西の下り坂は、空いている」


 坂の西の下りは、この戦のあいだ、谷の者が一度も塞がなかった道だった。


 伯は手帳を開いた。雨が頁を叩き、字が滲んだ。手帳のどの頁にも、北風の十日の三日目に南西の雨の列が来た日はない。


「記録にない雷——」


 伯はペンを止めた。塔の頭と、東の岩壁を伝う細い線と、その先の見えない谷を、順に見た。ミルデで、王都で、ハルデンで、今この時刻にも、同じ線の先の小屋で誰かが空を打っている。


「いいえ。記録にない、網だ」


     * * *


 雨が小降りになった。


 アルノは線の端から指を離し、岩壁のくぼみに背をつけて座り込んだ。左腕が肩まで焼けていた。指先が震え、胸の奥が重い。鎖骨の上の雷紋が、内側へ向かって一筋、熱を持って伸びていた。


 岩の上から、イルゼが滑り降りてきた。帳簿を外套の下に抱え、髪から雨を垂らしていた。


 坂の上では、連合の列が西へ退いていく。整った列だった。負傷者を背負い、盾を担ぎ、板を置き去りにして、峠の西の下り坂へ。


 雲が、また光った。雨の列は、峠の上でまだ育っていた。


 アルノは空を見上げ、左手を膝の上に置いたまま、指先に火花を灯さなかった。


「……終わりか」イルゼが言った。


「七本です」アルノは言った。「あとの三本は、心臓のために取っておきます」


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