第114話 北風の十日
北風は、夜半に来た。
峠の西の陣で、ウルリヒ・レーゲンは天幕の外に立ち、頬に当たる風の向きを確かめた。晩夏の新月から数えて、去年と同じ十日の、その最初の晩だった。三十年と一年の手帳に、今夜の風がまた一行増える。
「記録どおりだ」伯は呟いた。
夜明けの空には、雲が一つもなかった。峠の頂の上に、見慣れない塔が立っている。四本の木を斜めに組んだ、銅の頭の塔だった。
「伯、あれを倒しますか」と副官が訊いた。
「倒すな。倒せば、落ちる先がなくなって、雷は人の上に来る」伯は手帳を閉じた。「鎖で地につなげ。塔に落ちた雷は、鎖を伝って土へ逃げる。雷の谷の男爵殿は、我々のために避雷の塔を建ててくださった」
* * *
番小屋の戸口で、ボルクは坂の西を見下ろしていた。
盾の列が上がってくる。列の前には、長い板を担いだ男たちが立っていた。板を坂道に敷き、盾の列がその上を踏んで進み、後ろの男たちが板を拾って、また前へ運ぶ。乾いた板の上で、盾の裏の鎖は一度も砂利を擦らなかった。列は三歩ずつ間を空けて、横に大きく散っていた。
「退くぞ」
ボルクが言うと、番小屋の槍の十人が、稽古のとおりに東の岩の裏へ散った。炉の火を土で消し、戸を開けたまま、ボルクは最後に小屋を出た。壁には何もない。板の外れた釘の跡が、朝の光の中に並んでいるだけだった。
ボルクが二つ目の角の上の岩棚まで下りて振り返ると、峠の頂に伯の旗が立っていた。
* * *
二つ目の曲がり角の岩陰で、アルノは樽の銅の帯に左手を当てていた。
晴れていた。北風が坂を吹き下ろし、岩壁の乾いた苔を鳴らしている。頭の上の空は高くて青く、雷の気配はどこにもない。雷紋の上の皮膚は、ただの皮膚の顔をして黙っていた。
「一つ目の角、取られました」槍の若い者が岩の上から滑り降りてきた。「樽は、ヴォルタが乗ったまま転がして下ろしました」
「ヴォルタさんは」
「樽から下りません」
アルノは口の端で笑った。それから、坂の上を見上げた。
板を担いだ男たちが、一つ目の角を曲がって下りてくる。盾の列より十歩前。板を敷く者たちの背中には、鎖がない。重い鎖の盾を担いでいては、板は運べない。
「……伯爵さん、全部、研究してきてます」アルノは呟いた。「水を踏まない。濡れた土を避ける。鎖を垂らす。三歩ずつ離れる。去年の湖の平地のこと、全部」
「感心してる場合か」岩陰にしゃがんだイルゼが、帳簿を膝に載せて言った。「で、何本使う」
「樽の、半分くらいです」
「樽の半分って、本で言え」
「一本と、半分です」
板を敷く男たちが、二つ目の角の手前の直線に入った。盾の列がその後ろに続き、直線の坂が人で埋まっていく。
アルノは樽の栓を抜いた。
銅の帯に当てた手のひらから、樽の中の雷が腕へ流れ込んできた。去年の壺とは重さが違った。細く長く、糸を手繰るように腕の中を上ってくる。肘を越えたところで、アルノはそれを数えた。
いち、に、さん。糸が分かれる。し、ご、ろく。分かれた糸が、また分かれる。
「……さんじゅう」
アルノの指先から、青い筋が坂の上へ走った。
三十の筋が、晴れた坂の上で扇のように開き、板を担いだ男たちの足元と、担いだ板の上に、一筋ずつ突き立った。乾いた板が弾けて割れ、木屑が火の粉と一緒に舞い上がる。板を担いでいた男たちが次々に膝をつき、割れた板の上に倒れた。後ろの盾の列が、倒れた者と燃える板に足を止めた。
坂の上で、角笛が鳴った。盾の列は崩れなかった。前の者が止まると、後ろの者も三歩の間を保ったまま止まり、倒れた板の男たちを後ろへ引きずっていく。誰も叫ばず、誰も走らない。
「止まった」イルゼが言った。「止まったけど、逃げてねえ。あいつら、倒れた奴を引きずって、ちゃんと三歩ずつ空けて下がってやがる」
「はい。伯爵さんの兵です」アルノは左腕を振った。肘から先が痺れている。軽い焼けだった。「今日は、ここまでです」
「ここまで? まだ昼にもなってねえぞ」
「ここまでです。一つ目の角は取られました。峠の頂も。でも、二つ目の角から下には、今日は誰も来ません」
アルノは空を見た。北風の朝の空は、どこまでも乾いていた。夕方まで待っても、今日はこの空のままだ。天気帳の北風の頁が、そう言っていた。
* * *
一つ目の曲がり角の上で、伯は割れて焦げた板を見下ろしていた。
板を運んでいた者のうち、立てなくなったのが二十と少し。死んだ者はいない、と副官は言った。雷は板と足元に落ちて、人の胸には落ちていない。
「一度に、三十の雷が落ちました」副官の声が上ずっていた。「空には雲がないのに」
「樽だ」伯は、角の下の岩陰から転がって消えた木の樽の跡を見ていた。「雲のない日の雷は、樽の中にしかない。樽の数だけ撃てて、樽が空になれば終わる。記録どおりだ」
伯は手帳を開いた。今日の日付の下に、雷の数を書くのが決まりだった。
ペン先を紙に当てた。一、と書きかけて、ペンが止まった。三十、と書き直そうとして、そこでも止まった。樽は一つだった。雷の筋は三十だった。男爵の体を抜けたのは、どちらの数なのか。
伯はペンを紙から離し、しばらく白い頁を見ていた。
読んでいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。




