第111話 四千の名簿
受け小屋の硝子の針は、夜明けから一度も休まなかった。
ハンネは針の前の丸椅子に膝を抱えて座り、青い火花が跳ぶたびに左手の指を折った。行の拍、間、段の拍。右手の石筆が板の上を走り、拍が一文字ずつ字に変わっていく。十二になった信手頭の指は、去年の秋の倍は速かった。
「ミルデから、また」ハンネは針から目を離さずに言った。「レーゲン、センゴヒャク。クサリノタテ。……チョウヘイ、アリ」
アルノは板の字を写した紙を受け取り、卓の上に置いた。ミルデの小屋から来た紙は左へ、王都の小屋から来た紙は上へ、ハルデンの小屋からの紙は右へ。朝のうちに卓は紙で埋まり、並べ直すうちに、その並びがそのまま峠の西の地図になっていた。
伯の千五百。伯の寄子の騎士家と、峠の西の男爵家が三つ。公家の縁者アロイスの手勢。組合の金で雇われた傭兵の隊と、その隊長の名。
「ガスパルさんです」アルノは紙の端を指で押さえた。「また、来るんですね」
「さんをつけんな」戸口から入ってきたイルゼが、卓を覗き込んで眉を上げた。「……で、全部でいくつだ」
「四千です」
イルゼは返事をせず、紙を一枚ずつ指でたどった。唇だけが動いている。数え終えると、帳簿を卓の端に置いて、椅子を引いた。
「名目は」
「評議会の預かりです。峠は王国の街道の要だから、男爵の手には置けない、って」アルノは王都の小屋から来た紙を持ち上げた。「伯爵さんの書状と、同じ言い方です」
秋の北風の十日に、峠を受け取りに参ります。夏の終わりに届いた伯の書状には、そのあとにもう一行が足されていた。記録によれば、北風の十日の朝、峠は晴れています。
針がまた跳んだ。ハンネの指が折れていく。
「オウト。……ダイイチ、オウジョデンカ」
アルノが身を乗り出した。ハンネは指を折り、石筆を走らせ、板をアルノのほうへ向けた。
王家の兵は出せません。直轄軍は叔父の物です。峠はあなたの男爵領です。守るのはあなたです。
「……叔父って、王弟殿下のことですよね」
「そうだよ。回廊で、あんたの腕を叩いたおっさんだ」イルゼは板の字を読み、鼻で笑った。「王女様らしいや。助けねえって一行を、いちばん短く書いてくる」
続けて針が跳んだ。王都の小屋の信手が、宮殿の噂を打ってきていた。王弟殿下は直轄軍を動かさない。ただし峠の戦を見物なさる。見届け役を一人、連合の陣へ送る。
「見届け役って、誰でしょう」
「王弟の取り巻きの誰かだろ」イルゼは紙を卓の上の方へ押しやった。「勝ったほうの肩を叩きに来る役だよ。どっちが勝っても、王弟は損しねえ」
「……兄上じゃ、ないといいんですけど」
「近衛だろ、あんたの兄貴は。王弟の使い走りまではしねえよ」
イルゼはそう言ったが、紙から目を上げなかった。去年の秋、王都の回廊でマティアスが王弟の背中に深く頭を下げていたのを、二人とも見ていた。
卓の端に、白い獣が音もなく飛び乗った。ヴォルタは紙の上を三歩歩き、ちょうどミルデの紙と伯の紙の間に座り込んで、前脚を舐め始めた。
「ヴォルタさん、そこは峠です!」
「峠の番なら、ちょうどいいじゃねえか」イルゼが獣の尻を帳簿で押した。「どけ。四千の上に座んな」
ヴォルタは尻尾で紙を一枚払い落としてから、卓の下へ降りた。アルノは紙を拾って並べ直し、一歩下がって全体を見た。
峠の西の、まだ誰も峠を上っていない地図だった。伯の兵は今ごろ、伯領の村で槍を配っている。アロイスの八百は王の街道を東へ向かう途中で、ガスパルの傭兵はミルデの宿で組合の手形を数えているはずだった。四千の足は、まだ一歩も峠に掛かっていない。なのに、その名前と数が、全部この卓の上にある。
「イルゼさん」
「なんだよ」
「組合の早馬って、今どこですか」
イルゼは窓の外を見た。
「ミルデを出たとこだろ。伯のとこへ、連合の名簿を届けに」
「伯爵さんが自分の味方の名簿を受け取るより先に、私たちが読んでるんです!」アルノの声が跳ね上がった。「すごいです! これ、すごいですよ!?」
「おいおい、声がでけえ」
「だって、去年は、伯爵さんが坂の上に出てくるまで、何人いるか分からなかったんですよ! 指で数えようとして、途中でやめたんです! 今年は、まだ誰も来てないのに、もう数え終わってます!」
アルノは卓の縁を両手で掴んだ。左手の薬指と小指には、木の感触が来ない。それでも指先に力が入った。
去年の秋、雷がなければ何もできなかった。今年は雷より先に、知らせがある。空に雲が一つもない今日のうちから、戦えるかどうかを考えられる。
「……戦えます」
イルゼはアルノの横顔を見て、何か言おうとして、帳簿を開いた。
「戦えるかどうかは、あたしが数えてから言え。四千を何日食わせりゃ、向こうの財布が尽きるか。こっちの蔵が何日もつか」
「はい!」
針が跳んだ。
ハンネが指を折った。一度、二度。三度目で指が止まり、ハンネは首を傾げた。
「……オウト。シシン。ヒトリ」
「私信?」
「王都の小屋に、自分で銀五十を払って打たせた人がいる」ハンネは石筆を持ち直した。「宛名は、ダンシャク」
アルノは板の前に屈み込んだ。ハンネの指が折れ、字が一つずつ板に並んでいく。早口の兄の声が、拍の間から聞こえるようだった。
王弟殿下は見物なさる。俺も行く。……お前の敵の側でな。
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